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箱庭を制作した後のやりとり

箱庭は、言葉では表現できないことが表れると言われる。

だから、それを無理やり言葉にすることは、あまり好ましいことではないのかもしれないけれど、実際の臨床では、箱庭を作ってもらった後に、箱庭について話してもらうことが多い。

でも、話してもらった際には、うまくいく時とうまくいかない時があり、それは、クライエントとセラピストの間の関係性による部分も大きいように思う。

うまくいかない時は、
箱庭について詳しく聞こうとしても、
「いえ、ただ置きたくて置いただけです」
「かわいいから置いたんです」
「別に。ただ、目についたからです」
という反応しか得られず、話が広がらないことがある。

あるいは、箱庭とは全く関係のないことを、次々と話し続けて、箱庭から完全に離れてしまうことがある。

箱庭の言語化が、デリケートで難しい問題と言われる所以はここにあるように思う。

箱庭の言語化で目指されるところは、箱庭から自分の人生につながる新たな気づきを得ること。

感情や人生とのつながりについて全く言及されず、箱庭を置いたことのみについて語られても、箱庭によって気づきは得られない。

また、箱庭から完全に離れてしまって、全く関係のないことを次々と話すのでは、箱庭の良さが活かされていない。

その匙加減を感じながら、言語的やりとりをしていくことが、難しいところなのだろうと思う。

基本的には、どのような人も、「ただ置きたくて置いた」ということに違いはないわけで、セラピストからどのような質問を受けても、「ただ置きたくて置いた」という反応で済ませることはできる。

ただ、クライエントとセラピストの関係性が良好で、お互いの間に様々なアイデアや連想が湧き出てくるような関係であれば、セラピストの質問に対して湧いてきた連想について、「話したい」という欲が高まり、次々と話が展開するだろう。

またセラピストも、クライエントの話から連想が広がり、クライエントの理解につながるということが起こるだろう。

うまくいかないときは、そこにどのような要因があるのかを考える。

そして、そのうまくいかなさも、クライエントの理解のために役立てる。

そんなスタンスで、クライエントにあっていきたい。

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