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起終点駅

2021年9月13日の今日は、
元・乃木坂46の大園 桃子の
22歳の誕生日であり、
多くの乃木坂ファンが「#大園桃子生誕祭」というハッシュタグをつけて
彼女に対する熱い思いを
140字以内にしたためて
彼女の画像とともに投稿されたツイートしている。

そして同時に今日は、
「乃木坂46」の名前の由来となった
乃木神社で
御祭神乃木希典(まれすけ)・靜子(しずこ)御夫妻のご命日にあたる
一年で一番大切なお祭り「例祭」が
行われる日でもある。
今回の記事では、
「乃木神社」と「例祭」と
「乃木希典の半生」について説明しよう。

かなり記事が長いので、
「ふーん。そうなんだー。」ぐらいの
軽い気持ちで読んでいただきたい。



乃木神社

乃木神社は東京都の六本木にある神社だと
認識している方が多いが、
実は、日本国内に複数の乃木神社があり、
乃木希典の出身地の下関市や
別邸のあった那須塩原市など、
乃木希典ゆかりの地に多く存在している。

その中で「乃木神社」という名の神社が
・北海道 函館市乃木町
・栃木県 那須塩原市
(同じ読みの野木神社があるが、
由来は異なる)
・東京都 港区赤坂
・京都府 京都市伏見区
・山口県 下関市
に、存在しており、

他にも乃木希典ゆかりの地にある神社が
・滋賀県 近江八幡市安土町常楽寺
・香川県 善通寺市内
・埼玉県 飯能市
・北海道 室蘭市
に、存在している。

私も乃木神社は東京都にしかないものだと
思っていたが、
今回の記事を書くにあたって、
いろいろと調べた時に全国に5つ
ゆかりの地を含めて全国に
9つ存在していることを知った時は驚いた。
9つの神社について
詳しく書きたいところではあるが、
さらに長くなってしまうので詳しい情報は
下記のWikipediaを参考にしてもらいたい。

乃木神社-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE


例祭

例祭は、神社で行われる
最も重要で盛大なお祭りの事である。
年に一回(神社によっては年二回)
行われる祭典で、
一般に「例大祭」ともいわれている。
期日は、神社によって異なるが、
人物神を祀る神社では
その人物の誕生日や命日に
例祭を行うことが多い。

京都の乃木神社のサイトでは、
例祭について、
"1年に1回執り行われる最も重要な祭祀。
当社の御祭神乃木希典・靜子御夫妻が、
明治天皇への忠義を貫き殉死されたのは、
明治天皇御大葬当日
大正元年9月13日のことでした。
その4年後のご命日に当たる
大正5年9月13日、
予て東京青山墓地から
勧請申し上げていた乃木大将の御霊を、
当地に社殿を創建し御鎮座申し上げました。
この日を当社の例祭日と定めております。"
と、記載している。

今年も例祭に際して
例祭斎行にあたり記念の御朱印紙を頒布や
旧乃木邸一般公開開催などが行われている。


乃木希典の半生

乃木希典(のぎ まれすけ)
嘉永2-大正元(1849-1912)。
軍人、陸軍大将。
生誕から殉死まで、
時代を映し出す壮絶な生涯について
説明しよう。

1849年12月25日
長州藩の支藩である父と母の三男として、
江戸の長府藩上屋敷
(現・東京都港区六本木)に生まれた。
壮健に成長してほしいという願いを込めて
幼名は無人(なきと)と名付けられた。

1877年2月5日
西南戦争にて連隊を率いていた乃木は、
熊本県植木の戦いにおいて混乱の中で
明治天皇から賜った軍旗を敵兵に奪われる。
乃木はこの軍旗喪失を軍人として
この上なく恥じ、
処罰を求めましたが不問に処される。
しかし、自らを許せなかった
乃木は自害を図ったり、
重傷なのにもかかわらず
部下の制止を振り切って
野戦病院から抜け出して戦地に赴くなど、
自らを罰するように戦いに向かっていった。

1878年1月25日
乃木は東京の歩兵第一連隊長に抜擢される。
熊本から故郷の萩を経て
2月14日に着任した乃木は、
10月27日に旧薩摩藩藩医の娘である
静子(しずこ)と結婚する。

1894年8月1日
日本が清に宣戦布告して
日清戦争が始まると、
10月、大山巌が率いる
第2軍の下で出征した。
乃木が率いる歩兵第1旅団は、
破頭山、金州、産国および
和尚島において戦い、
旅順要塞をわずか1日で陥落させた。
その後「将軍の右に出る者なし」と
いわれるほどの高い評価を受けた。

1904年5月27日
乃木は、日露戦争では
第3軍司令官に任命されたが、
乃木が日本を出発する直前の5月27日、
長男・勝典(かつすけ)が
南山の戦いにおいて戦死した。
乃木は広島で勝典の訃報を聞き、
これを東京にいる妻・静子に
電報で「勝典の名誉の戦死を喜べ」と
知らせた。
勝典の戦死は新聞でも報道された。     

1904年の11月30日
第3回総攻撃に参加していた
次男・保典(やすすけ)が戦死した。
保典戦死の知らせを報告に来た参謀に、
乃木は涙を見せまいとして、
ローソクの火を消した。
長男と次男を相次いで亡くした乃木に
日本国民は大変同情し、
戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、
二人なくした人もある」という
俗謡が流行するほどだった。

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画像:左が乃木勝典の墓、右が乃木保典の墓

1907年1月31日
戦争後、宮中に参内し明治天皇に
戦争経過を報告した。
乃木の頬肉はげっそりと落ち、
顔には深い皺が刻まれ、
髭は真っ白になっていた。
乃木は自らの不覚を天皇に詫び、
涙とともに報告を終えた。
乃木の報告が終わるやいなや、
明治天皇は
「乃木、卿の奉公はまだ終わっていないぞ。朕が命令を待ち、すべからく自重せよ」
「どうしても死ぬというなら
朕が死んだ後にせよ」
明治天皇のこの言葉を聞いて、
乃木は肩を震わせて嗚咽した。
乃木を死なせたくないという
明治天皇の気持ちが痛いほどに
伝わってきたからである。
そして軍事参議官の乃木は
学習院長を兼任することとなった。

1912年7月30日
明治天皇が崩御した公式の日時は
1912年7月30日午前0時43分であり、
持病の糖尿病が悪化して尿毒症を併発し、
宝算61歳(満59歳)で崩御した。

1912年9月13日
午後8時、東京・青山の
大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において
明治天皇の大喪の礼が
行われた日の午後8時頃、
乃木はようやく死に場所を得たと
感じたのであろう。
殉死することで、天皇へのご恩に報い、
国家に奉仕できると。
乃木ははじめ一人で死ぬつもりであった。
死の前日書いた遺書は
妻静子の生を前提として書かれている。
おそらく、乃木の死の直前、
静子は一緒に死なせてほしいと
頼み込んだのであろう。
遺書を書き換えることも
できない程の直前に。
乃木は妻を先に死なせた。
女性の身として、
万一死の苦しさに身もだえして、
衣服が乱れることがないようにという、
夫としての最期の
優しいいたわりだったと言われている。
乃木は妻の死を見とどけたうえで、
自ら割腹した。
乃木希典は享年64(満62歳)没、
静子は享年54(満52歳)。

ちなみに乃木は、
このように辞世を残している。
「神あがりあがりましぬる大君の みあとはるかにをろがみまつる」
(崩御され、天上に昇られた天皇の御跡を遥かに拝ませていただきます。)

「うつ志世を神去りましゝ大君乃 みあと志たひて我はゆくなり」
(現世を去られた神ならぬ御身の天皇の
御跡を慕ってわたくしも参ります。)

また、妻の静子は、
「出でましてかへります日のなしときく けふの御幸に逢ふぞかなしき」
(お出ましになってもお帰りになる日はないとお聞きしました。
今日の御幸に逢うのは哀しいことでございます。)

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画像:旧乃木邸 乃木夫妻はここで割腹した。


その後

乃木の訃報が新聞で報道されると、
多くの日本国民が悲しみ、
号外を手にして道端で
涙にむせぶ者もあった。
乃木を慕っていた
裕仁親王(後の昭和天皇)は、
乃木が自刃したことを聞くと涙を浮かべ、
「ああ、残念なことである」と
述べて大きくため息をついたという。

乃木の死去を受け、
読売新聞のコラム「銀座より」では、
乃木神社建立、乃木邸の保存、
「新坂」の「乃木坂」への
改称などを希望するとの意見が示された。
その後、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、
日本の各地に乃木を祀った
乃木神社が建立された。
亡骸は今も青山霊園に眠っている。

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画像:左が乃木静子の墓、右が乃木希典の墓


最後に

1912年9月13日に乃木希典が自ら割腹し、
その87年後の
1999月9月13日に鹿児島県曽於市で
大園桃子が生まれ、
2021年9月13日に22歳の誕生日を迎え、
アパレルブランド「philme (フィルム)」の
開業をInstagramで発表し、翌年の
2022年9月13日に
乃木希典の死後から100年になる。
学校の先輩に無理やりオーディションを
受けさせられ、
自分が生まれた日の87年前に
亡くなった軍人の名が付けられた
アイドルグループの
オーディションに合格して
2016年9月4日から2021年9月4日まで
5年間のアイドル活動を全うした。

そして9日後に
神にも等しい力を持った女性の生誕日と
時代の変わり目に割腹した軍人の命日が
交錯する。

これらの事実を「偶然」という
言葉で片づけてしまうのは、
もったいないほどに
センチメンタリズムな運命を
感じてしまう。

この記事を書いている時に、
大園 桃子に
乃木神社の例祭と乃木希典の存在を
知っているかどうか質問したくなったが、
それは解けない謎として
私の胸の中で留めておこう。


もう、これ以上記事を書く気力が
尽きたので、
"今後もどのような物語が
生み出されていくのかを
楽しみにしながら、
それぞれの動向に注目していく。"
という、コメントを残して
ここで、終わりにする。


最後までこの記事を読んでいただけた事を
心より感謝する。

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