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高齢になって見知らぬ街に引っ越し、”居場所”に救われた祖母の話

「居場所」について何度かnoteに書いてきた。人には居場所が必要である、居場所を得るために不本意なことをしたり、無理をすることもあるのではないか?と書いたこともある。

居場所を得るために、宗教や高額セミナーに収入に見合わないお金を払ったり、それに興味のない他人をしつこく勧誘するのは考えものである。しかし、本人が無理のない範囲で、楽しく参加しているのであれば、宗教もセミナーもいいのではないか。そう考えるのは、私の祖母が、ある宗教に救われた一人だからである。

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祖母の信仰と、家族のようだった「教会」の人々

子供の頃、両親が働いているわが家では、ご飯を炊くのは祖母の役目であった。祖母はご飯が炊きあがると小さな器にご飯を盛りつけ、神棚にあげた。ご飯と一緒にあげるお茶を淹れるときは必ず新しい茶葉を使った。小さな私は祖母の横に座り、祖母を見習って柏手を打ち、手を合わせた。

わが家の神棚は、お友達のともよちゃんの家の「お仏壇」とは違った。わが家が信仰しているK教は神道の1つらしい。だから柏手を打つのだ。

日曜日になると、祖母はバスに乗り、K教の「教会」に参拝していた。キリスト教の教会で日曜礼拝があるように、K教でも日曜日にイベントがあったのだ。祭壇に向かって祝詞を唱えたり、教会長の先生の講和を聞いたり、他の宗教と同じようなことだろう。

祖母の楽しみは、そこに集う信者さんたちとおしゃべりすることであった。同世代や、少し若い仲間たちとお茶菓子を食べながらわいわいすることは、祖母にとって楽しい時間だったに違いない。信者さんたちは祖母の大切な友人であり、教会は社交の場であった。

この教会に助けられていたのは、祖母だけではない。同じ市内に親戚のいないわが家にとって、教会長ご夫妻、信者さんは親戚のようなものだった。特に母が亡くなった直後はどれだけ助けてもらっただろうか。涙なしでは語れないが、これはまた別の機会にnoteに書きたいと思う。

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祖母の死後に、信仰のきっかけは寂しさだったことを知る

数年前に帰省したときに、K教の教会に参拝した。祖母がお世話になっていた教会長はいまもお元気だが、最近は教会長の娘婿さんの「若先生」が中心となり、教会を運営されている。とても穏やかな面白い若先生である。若先生は祖母のことを直接は知らないが、信者さんから聞いたという、祖母がK教に入信したきっかけを話してくれた。私にとっては初めて聞く話であった。

私の両親、祖母はもともと隣県に住んでいたが、両親の結婚と同時に、仕事の都合でいま住んでいる県にやってきた。父の姉である伯母は県内にいるが、同じ市内ではない。わが家からは車で1時間近く離れている。

両親はまだ若くて仕事も忙しいが、還暦過ぎて知らない土地に来た祖母は、知り合いもおらず、寂しい思いをしていたらしい。そんなときに、K教の信者である、としえさん(仮名)という若い女性と知り合った。としえさんは祖母の話を聞き、

「私がお参りしているK教の教会にいらっしゃいませんか?お仲間がたくさんいて楽しいですよ」

と声をかけてくれた。

K教はそれほど知られていないかもしれないが、神道の1つであり、怪しげな新興宗教ではない。他の宗教を否定することもなく、「家のお墓は仏教のお寺にあるけど、教会には通いたい」という人も受け入れてくれる(と、私は理解している。たしかそうだったと思う)。

法外なお金をとられることも、信者を勧誘することも強制されない。葬儀や法事をお願いする際にはまとまった金額をお支払いしたが、普段の参拝では果物やお菓子、小銭(せいぜい千円程度)をお供えしていたくらいだと思う。

そのくらい気軽に参拝できる場所であるにもかかわらず、祖母にとっては、いろいろ相談できる物知りな教会長がいて、わいわい話せる仲間がいる。また、何か信じるもの、自分にとっての「神様」がいるというのは、日々の生活の心の支えになるものだ。誰がなんと言おうが、祖母には必要な場所だったのだ。

私はこの話を聞いて、祖母の寂しさを思うと同時に、まず、祖母に声をかけてくれたとしえさんに感謝した。K教は信者の勧誘などが義務付けられている宗教ではない。としえさんは純粋に、年の離れた祖母と一緒に楽しめる場所として、自分の家族が通っている教会に誘ってくれたのである。そして、長年にわたって祖母と親しく接してくれた教会長ご夫妻、信者の方々に感謝の気持ちがわいてきて、涙が止まらなかった。

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高齢になって見知らぬ街で暮らし始めた祖母は「宗教」という居場所に助けられ、そこには近くに親戚のいない私たち家族にとって頼れる人がたくさんいた。だから、「居場所」を求めて宗教やセミナーに通うことは否定しない。私自身も、大学の社会人講座に通い、学生時代や仕事関係以外の仲間ができた。その仲間のつながりも、私の「居場所」の1つであることは間違いない。

居場所の温かさを知っているからこそ、そこはお金集めが目的であったり、自分たち以外の考えや意見を否定する場所ではあってほしくないと思う。もしそういう場所に入ってしまったら、「居場所」がなくなることを恐れず、さくっと立ち去りたい。

本当に必要な居場所は、無理せずにそこにいられる、温かいものであるはずだから。

☆人気ドラマ「愛の不時着」のチョルガンは居場所がなかったのでは?という記事を書きました。

※カバー写真はぱくたそさんよりお借りしました!

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