涙声に至る

 
 自分はどうしてなぜ折ごとにこうも軽微けいびしいたげられては時として涙ぐむことに至ってしまうのだろうか。自分は他と一様に生きているだけではないか。ただ一途にひたすらに生きているだけではないか。だのにどういった訳柄でこの私はよくよくうなだれてしまうのだろうか。かてて加えてどうして他は(まあもっとも露呈していないだけかもしれないが)自分とは違って他から容認されてはそうして団欒だんらん莞然かんぜんとしているのだろうか。大勢が自分を無下にして視界には入っているはずなのに無視をして、そうしてどうして自分は孤立してしまうのか。双方に問題がある、そうなのかもしれない。(まあ語弊ごへいがある)
 夏が暮れて秋の気配が高じてくる時期。そういった夜に闇路を散歩していると不意に物悲しくなる。もちろんそれは沈思に起因する。「あの人は自分を嫌っているのだろうか。気味が悪いと思っているのだろうか。もしそうなら自分は性来嫌われ者なのだ。自分の意向通りに振る舞えば嫌われるのだ。はあ、自分は薄幸なのだ。」と。まあ被害妄想だとののしることは止めてほしい。私は実直に苦悶くもんしている。「自分は人からすれば気に食わない奴なのだ。」
 僕は時折思う。勝手気ままとはそれ自体において害毒なのではないだろうか、と。つまりよしんば本当にそうならエゴイストは生きているだけで害毒なのではないだろうか、と。
 でもさらに僕は思う。けれども本来エゴイズムとは無自覚的でそしてそうならエゴイズムへの非難とはすなわち個性の非難に相等しいんじゃないかな、と。だって無自覚的ということは行為に対して言ってしまえば経験を付与していない(できていない)ということで、そして経験に相反するのがまさしく生得的な何かしらつまりここでは個性だと思うから、と。エゴイストは大変だね。
 自分は人間が好きなのか嫌いなのか。不審ふしんに思うことがある。傷つけられてばかりだけど信じていたい気持ちがほのかにある気がするのだ。そしてそれは好きだからなんじゃないか。僕には愛情があると思う。
 文学をしていると自分が嫌いになる。だって駄弁ばかりだから。てんで当を得ていないことばかりを書きなぐるから。芸術家になんて成り得ないくせになろうと奮起する時がある。それがとっても見苦しい。目も当てられない。だってべらぼうに決まりが悪くなるから。恥ずかしい、恥ずかしい。馬鹿は馬鹿でいればいいのに。そっちの方が楽なのに。
 僕の自己嫌悪とは決まって自己没頭によるこだわりからであった。自分を嫌うのは自分を下等だと思うから。そしてそれはこだわるから。僕はきっと自分が大好きなんだと思う。自分を信じている。でも裏切られてばっか。だから嫌い。期待とは一時的な幸福、でもいずれ必ず裏切られる。だから結局不幸。僕は不幸者なんだ。
 山奥に逃げ込みたい。
 自分を失いたくない。ああ、あの頃の自分。僕は幸福だった。僕は人を知らなかった。僕は、僕は人に嫌われ得た。でも今は避けられる。僕は自分をさげすむ。人から嫌われないために。馬鹿になって、「こいつは馬鹿だから付き合ってやろう。」と言わせるために馬鹿になって卑下ひげばかりしている。さめざめ。僕は馬鹿だ、馬鹿なんだ。人から嫌われ得る馬鹿なんだ。ああ、あの時代。僕は確かに幸せだったのに。
 自分はダメな奴なんだ。でも変わりたくない。やっぱり僕は自分が大好きなのだ。おざなりの道化なんてむなしい。人を傷つけるか自分を傷つけるか。どっちを取っても赤恥。僕はどうしたらいいのだろうか。
 やんわりと抱きしめてくれる人は僕の何を認めてくれているのだろうか。やっぱり滑稽こっけいな点だろうか。でもその人とはそんなにも下劣な人だろうか。信じられない。でもそれとは何なのだろうか。人が愛し得る対象の共通点とは何だろうか。結局、エゴではないだろうか。
 きっと女の人は僕のために割くことをしてくれない。信力がない。だって僕には色気がないし馬鹿だし面白くないから。一緒にいたって他人だから気を使うだけで本当は逃げ出したいと思うに決まっている。まあ僕には自分しかいないから。自分だけが僕を知って包んでくれる。しくしく。(まあ可愛い顔の持ち主なんだけど)
 唯一の友は立派で幸せ者だ。僕も彼みたいな人間だったのに。
 時間の経過が早すぎる。僕なんてすぐ死ぬんだ。恐ろしい、恐ろしい。まあちなみにすでに遺書は書いてある。まあ小説風に。
 自分をとにかく肯定できればこの上ない。僕には自信がなくて否定ばかりしている。やってみるということができない。だってどうせ自分を責めるから。でも幸せのためには自己成長がまず必要だと僕は思う。でも勇気ができない。やっぱり自分を良くないんだね。
 僕には時間という味方がいる。いつか彼が救い出してくれることを心待ちにしている。希望はそこにしかない。僕は忍耐するしかないのだ。
 僕には書くことしかできなくて人と関わるときっと、特に自責をする。だから僕は引きこもって一日中書くことしかないのだろう。でも仮に僕が天才でも認められてお金を貰えなくては無論飢えてしまう。僕には人の慈しみが必要。自分の不幸を書き込んで人の美徳を仰がなくてはいけない。慈しみの心は実は個人を満足させる。僕は時々感涙しながら書く。自分を慈しむ。 
 いや自分は被害者だと言っているのではない。自分はこういう境遇にあると言っているだけだ。つまり言ってしまえば特別な存在だ、などと言っているのでなくつまり興奮するまでもないことなので今すぐ止めてほしい。ああ、無心になりたい。ああ、人を傷つけたことに気付けぬ幸福。ああ、自分は人を慈しむことで自分を責めている。ああ、孤立を恐れることのできぬ男であれば僕はどれほど幸福だろう。おおよそ計り知れない。
 独り河原で秋の月を眺めること。それに憧れるのは自分が疲れているからだろう。秋の月やせせらぎや湿った風は自分をどことなく慰めてくれるのだ。そうして僕は安らぐのだ。


 

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