日本アイスホッケーの歴史(1)

アイスホッケーという競技、ウィンタースポーツの中での球技(パック)として唯一無二のもの。特に北米では32チームで構成されるNHLが四大スポーツとしてあげられている。しかし、今の日本ではマイナーなスポーツとして甘んじている。

ここで日本でのアイスホッケーの歴史を振り返ってみる。
手元に一冊の雑誌がある。雑誌の名前は「アイスホッケーマガジン」(ベースボールマガジン社発行・現在休刊)だ。2000-2001シーズンの12月・1月合併号に「20世紀アーカイヴス」という特集が組まれている。
それによると、アイスホッケーが興行として「第1回日本リーグ」が開催されたのは1966年11月15日、品川スケートリンク(現在存在しない)で王子製紙vs古河電工(両チームとも当時)でスタートした。前年の1965年にはサッカーの日本リーグが開始されている。サッカーも実業団チームであるが、ご存知のとおり1993年に「Jリーグ」としてプロリーグに発展している。アイスホッケーの「日本リーグ」は当時、西武鉄道(東京・品川クラブから移行)、王子製紙(苫小牧)、古河電工(日光)、岩倉組(苫小牧)、福徳相互銀行(大阪)の5チームでスタートした。なぜ1966年からリーグ戦が開始されたか。この年の4月に1972年冬季五輪が札幌に招致されたからだ。開催国のメンツにかけても代表チームや選手強化が必要であり、それを踏まえてのリーグ戦開催というところが大きな目的であったようだ。開催形式は現在のような試合数の多いリーグでなく、前期後期制でわずかに4試合づつ、計8戦の成績で争っていた(ちなみにNHLは2023-24シーズン現在で、全32チーム・1シーズンのレギュラーリーグで82試合とプレーオフ)。
第2回日本リーグ後期では初めて国立代々木第一体育館にアイスリンクを設営して開催。優勝争いがもつれる展開となり、初日8,500人 2日目9,500人、最終日10,000人を集客し、当時のサッカー日本リーグより人気も注目度もあったという。

年を追うごとにリーグ戦の開催数は増え、第5回大会から総当たり戦3試合のリーグとなる。このシーズンの終盤に札幌冬季五輪が開催される。11カ国が参加し、日本は予選リーグでチェコスロバキア(当時)と対戦し2-8で予選敗退。7-11位決定戦に回り、西ドイツとユーゴスラビア(ともに当時)に勝利し、2勝1敗1分けで9位となった。

札幌冬季五輪終了後の1972年5月、本業の業績悪化を理由に福徳相互銀行チーム(大阪)が廃部となる。日本リーグは4チーム体制になり、リーグ存続の危機にたつが、堤義明氏の率いる西武グループが、当時40名の部員を抱えた西武鉄道チームを2分して、あらたに国土計画(のちコクド)チームを編成し、日本リーグは存続。さらに第9回リーグから北海道・釧路の十條製紙(→日本製紙・現在廃部)がリーグに加入して、6チーム体制へ。
しかし発足当時は連続優勝した苫小牧の岩倉組が第13回リーグを以って廃部。再びリーグ存続の危機が訪れるが、以前からアイスホッケーに興味を示していた札幌の雪印乳業が、そのままチームを引き受ける事となり、6チーム体制は1999-2000シーズンの第33回日本リーグまで維持された。

この間、リーグの覇者といえば、苫小牧の王子製紙が1981-82シーズンから1993-94シーズンまでの13シーズンに9回優勝。国土計画(→コクド)が残りの4回を優勝している。1998年の長野五輪開催のため、再び代表チーム強化のため、日系人の選手登録が可能となり、多くの日系人選手(代表選手)を有した、コクドと西武鉄道がリーグでの覇者となる。

また長野五輪前の1997年、98年、そして五輪後の2000年の3回に渡って北米アイスホッケーリーグ(NHL)が代々木第一体育館やさいたまスーパーアリーナ等にリンクを設営し、日本で公式戦を計6試合を開催していた。

しかし、長野五輪後の1998-99シーズンに日本最古で73年の歴史をもつ古河電工が本業の業績不振にて廃部。再びリーグ存続の危機が訪れる。日光という人口2万人程度の地方都市でクラブチームとして再出発するのはスポンサー獲得を含め困難であったが、奇跡!が起きて、何とかスポンサーを獲得して、1999-2000シーズンの第34回リーグから「日光アイスバックス」として再出発し、6チーム体制は維持された。
さらに2000年に親会社の食中毒事件発生をきっかけに業績が悪化した雪印チームがこのシーズンを以って廃部。最終シーズンに雪印はリーグ戦とプレーオフ準決勝を勝ち抜き、プレーオフファイナルでコクドと対戦するが3連敗で準優勝。チームとしては2度の準優勝が最高位でリーグ優勝は果たせず、廃部となる。雪印も2001-02シーズンはクラブチーム「札幌ポラリス」として再出発するが、雪印からのスポンサーが終了した次のシーズンは、資金面から日本リーグの参加は出来ず、1シーズンのみの活動となった。
また日光アイスバックスも運営会社が債務超過に陥り、2000-01シーズンを以って廃部となること発表される。しかし…

つづく


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