マズローへの挑戦状① 非常識超越理論から考える

2022/11/13/Sun

事情探偵神原右京のマズローへの挑戦状 第一夜

これは世界の謎を解き明かそうとする事情探偵神原右京の推理の記事である。

おっぱっぴー芸術思想家Keith Uさんの非常識超越理論から考える。

キースユーさんの非常識超越理論がある。それを元にいろいろ考えてみた。私の理解が間違っていたらすいません。

そもそもどのような理論かというと、世の中には、以下の四つがある。
常識・・・みんなが常識と考えているもの
狭義のおっぱっぴー・・・常識の中にあるものだが、実は非常識ではないかと疑う人がいるもの
否定的非常識・・・常識の外にあり、非常識とみなされていて、また悪い非常識とみられているもの
肯定的非常識・・・常識の外にあり、非常識とみなされているが、良い非常識とみられているもの
ものごとはこの中を循環したり、消滅したりしているという話だ。

統一教会についてのニュースは毎日のようにやっているが、これもこの理論で説明ができる。
統一教会の献金問題などで、辛い目にあっている人たちが一定数いた。これが狭義のおっぱっぴーの状態。それがつもりつもって重たくなって、今回の事件をきっかけに、一気に否定的非常識に下がり、社会から批判されているという図式だ。
徐々に否定的非常識に下がるならいいが、一気にであった。外部の人はどうということはないかもしれないが、関係者にしてみたらたまったものではないだろう。悪夢を見ているような気持ちだろう。この一気に落ちる現象を私は「だるま落とし現象」と名付けたい。一気にストーンと落ちる。

パワハラについても割と一気だったかと思う。10年前、20年前には当たり前にまかり通っていた慣習だが、それがこの5年程度で一気に否定的非常識に下がったように思う。当然常識とされていたときも、被害を受けた人はいっぱいいてその人たちは狭義のおっぱっぴーだと思っていたと思うのだが。
何が原因かはわからないが、「パワハラ」というネーミングが広く認知されたことや、高橋まつりさんが亡くなった事件などもあり、女性議員の秘書へのパワハラ事件などもワイドショーに取り上げられたり、若者の価値観など、時代背景もあり、一気に否定的非常識に下がっていった。

セクハラも30年前には当たり前にまかり通っていたものが、もちろん狭義のおっぱっぴーと感じていた女性は多くいたと思うが、「セクハラ」とネーミングされて、認知されていき、徐々に否定的非常識に下がっていったと思う。

このように常識と否定的非常識の間を動くには、
ネーミング付け、
キャンペーン、
イベント、
運動・ムーブメント、
革命、
時代背景、
などの力が必要なように思われる。
坂本竜馬や幕末の志士たちだって「尊王攘夷」という名の革命、ムーブメントだったのではないだろうか。松下村塾しかり、ルネッサンス運動(人間復興運動)しかり。

反対に肯定的非常識が常識に上がるケースは、
カラーテレビ、電気自動車など、価格が安くなって大衆化が進むと常識になっていくと思われる。
SDGsも今やすっかり常識となっているが、これもネーミングやキャンペーンの力だろうか。

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