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みんな愛に飢えている

「心の底から欲しいものってなんですか?」
instagramのストーリーで流れてきたこの質問に手を止めた。
考えること5秒。
新しいiphoneでもなく、僕がいつか乗りたいなと思うポルシェでもなく、
それらを買えるだけのお金を望むでもなく、愛が欲しい。
「愛だ。自分が好きな人からの愛が欲しい。」
なんだか照れ臭いがそう思った。


画面をタップして同じ投稿者の次のストーリーへと移る。
その画面は数人の返答者の返事が載せてあった。

「愛」「愛情」「愛」「愛...かな。あとHDD」
「生涯の伴侶」「彼女です笑」「...彼女(ボソッ」「嫁」「彼女です!!」

僕を含め、なぜ人は愛を求めるのだろう?
「お金で愛は買えない」からだろか?
僕はお金で愛を買おうと思ったことがないからこのことが本当なのか嘘なのか判断できないし、もしかしたら買えるのでは?と考えてしまうタイプだ。

だから僕はこう思う。


愛は見えにくい。だから求めてしまう。


大切な人に「愛しているよ」なんて囁きながら抱きしめられたとしよう。
ここに大切な人からの愛はあるのか?
きっとあるのだろうし、抱きしめられた人は愛を感じると思う。


愛は行動として現れたり、言葉として現れたり、
時にはプレゼントのように物として現れる。
でも愛自体は決して目に見えない。
言動、物を通すことで想像し、愛を受け取る。
だから「愛しているよ」と嘘をつくことだってそんなに難しくない。
これが愛だよと目に見えて、確実にこれが愛だと証明できない。

自分が欲しいと願って、はいどうぞ、と貰える物ではない


大人になってある程度お金を手にすると、子供のころに喉から手が出るほど欲しかった物が簡単に買えてしまう。
クレジットカードでローンを組めば大人になった今でも高いなと感じる買い物でさえ簡単にできてしまう。
しかもその物欲は自分の好きなタイミングで叶えることができる。
大人になってよかったと思える。笑

でも愛は違う。
愛されたいと思っても、愛してくれる人がいなければ成立しないし、
タイミングだって自分の思い通りにはならない。
自分ではコントロールのしようがない。
だからこそ「なんでもあげるけど、何が欲しい?」となった時に、
「お!! なんでもくれるのか!? それなら愛が欲しい!!」となるんだと思う。

愛は直接目には見えないし、
欲しいと願ったからといって自動販売機でコーヒーを買うように手に入る物でもなくて、愛してくれる人がいて初めて愛される機会が与えらる。



人から愛されるにはどうしたらいいのだろうか?

「とりあえず自分が愛する側になればいいんじゃないか?」
このnoteを書いていてそう思った。
愛されるということはこんなにも難しいけれど、愛することは全く難しくない。自分がどうするか、という話で完結するから。
周りの大切にしたい人に対して、行動や言葉、物を通して愛を伝えていく。


愛されるということがこんなにも難しいのに、自分に対して愛を表現してくれる人が居たらどう思うだろう?
不器用でも自分なりにその人のことを愛してみようと思うんじゃないだろうか?


なんて、愛を欲する話なのに、愛を与える話になってしまった笑

きっと愛とはそういうもので、でも人間には不可欠なもので、
だからこそ宗教のテーマになったり、歌や絵画など芸術作品のテーマにもなっているのだろう。

数年後にはもっと愛について深く語れる大人に成長していたい。

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