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ネットの誹謗中傷|将来に私達が考える事とは

僕はあまりトレンディー系やヒューマン系のテレビは見ませんので、あまり詳しい事は知りませんが、テレビに出演していた某有名人が、ネットの誹謗中傷で自殺したとずいぶんニュースに取り上げられていますね。

僕が見たのは「誹謗中傷のネット投稿に関する協議」というニュースでした。

今回はネットの誹謗中傷について個人的な見解を話してみたいと思います。

率直な意見を言わせて貰えば、生きるか死ぬかは個人の判断ひとつです。しかし、死ぬという選択肢を与えたのは紛れもなく赤の他人です。

その人がどんな人生を生きてきたのか?どんな事を見ているのか何も知らない人間が、勝手に自分の人生がうまくいっていない当て付けにコソコソと人を攻撃しているということです。

はっきりいうとクソほどつまらない人間に自分が死ぬという選択肢の背中を押されたということでしょう。

しかし、死んでしまえばそれで終わりです。

例えその人が誹謗中傷に耐えられず自殺をしたとしても、本気で悲しんでくれる他人は誰1人としていないかもしれません。

そしてすぐに忘れ去られてしまいます。

おそらく誹謗中傷を書き込んだ人間も何にも思っていないでしょうし、後悔すらしていないでしょう。むしろ楽しんでいるかもしれません。

それでも命を投げるほど追い詰められる事があるという事です。

人にはそれぞれ性格があります。

誹謗中傷を受けても対して深く考えない人もいれば、深く悲しみ理性を失う人間もいます。

例え厳しい法律ができて、罰則ができたとしても人間の誹謗中傷はなくなりません。どこかで形を変えて必ず誰かを攻撃するでしょう。

それは人間がみんな仲良く平和に、争いがなくなる日なんてこないという事です。

悲しい現実かもしれません。

ではこれからの将来に一体何を信じて何を考えていかなければならないのでしょうか?

私たちの一生の時間というのは一瞬です。

死んでしまえば私たちが生まれてくる前の状態、存在しない状態になるだけです。

私たちの生きる意味ってなんなんでしょうか?

それは自分の人生を全うする事です。

どんな生き方でもいいんです。自分がこれで良かったと思えるような人生を送る事、それが生きる意味です。

この世の中は正しい事が必ず最後に勝つわけではありません。むしろ正しいとは一体何なのか?それは私たち人間が作り上げた常識という名の理想かもしれません。

自分が正しい、自分がこれをやりたいっていう事はやってみたらいいでしょう。

それが仮に間違っていたとしても、自分が決断した事です。誰のせいにもできないでしょうし、間違っていたならこれから先に、その失敗をどう活かしていくか?という事を考えられます。

今回なにが言いたかったかというと、死ぬのも生きるのも全て自分が決める事だという事です。

そして、他人が何を言ってきたとしても、その言葉に責任を持っていないという事です。

何かをやって認められる事もありますが、その反面に必ず逆の意見もあるという事を忘れてはいけません。

例えばボランティアをやっている人。それは誰かに認められるものではなく、自分がただやりたいからやっているという事であって、感謝されることもあれば、その行為自体を面白くないと思う人間も必ずいる。そういうことです。

自分の人生は自分のものだけでしかありません。

他人からしてみれば大した幸せでもないような事でも、あなたからしたら大切な時間であればそんな時間をふやしていけるように努力する。それもひとつの人生観ではないかと思います。

ですから、ニュースを見て何かを感じたならば、自分の人生に照らし合わせてみてもいいでしょう。

誹謗中傷をした人間を責めるより先にあなた自身の人生をどう生きていくか?それが1番大切な事だと考えます。