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【検証】『優駿図鑑』(2021年10月4日発行/ホビージャパン)は本当にひどいのか(第8回)

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【検証】『優駿図鑑』(2021年10月4日発行/ホビージャパン)は本当にひどいのか(第7回)
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【検証】『優駿図鑑』(2021年10月4日発行/ホビージャパン)は本当にひどいのか(第9回)
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本原稿の引用は、特記していないものはすべて以下の書物を出典としています。

出典:優駿図鑑 - ホビージャパン

キングヘイロー(これもう内紛勃発では級の誤植)

すでにツイッターを中心に、「やばい」という情報が流れているキングヘイロー編を見ていくときがやってきました。彼に与えられたのは2ページですが、のっけから「かわいい」やらかしがあります。かわいいかな……と自問自答してしまいますが、ともあれ始めていきましょう。

'99東京新聞杯
スペシャウルウィーク、セイウンスカいとクラシックで互角に戦ってきた実力馬にとって、G3では格が違った。

2枚ある写真のうち、1枚目は1999年東京新聞杯のもの。柴田善臣騎手に乗り替わりとなった初戦は、2着ケイワンバイキングに3馬身差をつける快勝。黄金世代の王としての力を見せてくれました。

さて、もうお気づきでしょう。私が誤植したのか、『優駿図鑑』が誤植したのか。答えは後者です。「スペシャウルウィーク」も「セイウンスカい」も、原文ママです。逆に気づかないのが難しいレベルで、もはやアンチ黄金世代がわざと残したんじゃないかとすら感じます。『優駿図鑑』の誤植は格が違った。

キングヘイロー(主戦騎手)

主戦騎手:柴田善臣

主戦騎手というのは、馬によっては非常に選択が困難なケースがあります。キングヘイローもそのうちの1頭で、『優駿図鑑』は柴田善臣騎手をチョイスしました。

しかし、「キングヘイローといえば福永祐一騎手のお手馬では」という意見があるのも、また事実です。両騎手とキングヘイローの関係について、それぞれまとめてみましょう。

【福永祐一騎手とキングヘイロー】
デビューから手綱を取り、キングヘイローの全27戦のうち13戦に騎乗しました。新馬戦当時はまだ満20歳の若手も若手。騎乗を学ぶことに熱心であり、田原成貴騎手などトップジョッキーに教えを乞い、44歳となった今は名実ともにトップジョッキーと呼ばれるほど成長しました。今でもコースに出ては丹念に馬場を確かめ、騎乗馬に最良の結果を出せるように努力する姿が見られます。

福永祐一騎手の父は、「天才」と呼ばれた福永洋一騎手。落馬という騎手が抱える最大のリスクに遭遇し、窒息死しかけながらも一命は取り留めたものの、脳挫傷によって深刻な後遺症が残ってしまいました。それでも、懸命にリハビリを続けることで、1年後には自力歩行をし、あいさつを返す発話行為が可能なまでに回復。2021年現在も72歳で存命です。また、2010年には出身地である高知県の高知競馬場に「福永洋一記念」が誕生し、現在も続いています。

そんな偉大な父と比較され、「親の七光りの最たるところ」と言われ続けた福永祐一騎手は、当時、やはり経験も技術も足りないルーキーでした。その福永祐一騎手とともに戦ったキングヘイローは、それでも1997年東京スポーツ杯3歳S(G3)で1着、出世レースのラジオたんぱ杯3歳S(G3)でロードアックスの2着。翌年も報知杯弥生賞(G2)でスペシャルウィークの3着、そして皐月賞でセイウンスカイの2着と、黄金世代の「3強」の一角として申し分ない活躍を見せます。

しかし、迎えた1998年の日本ダービー。「福永洋一の息子が有力馬で日本ダービーに出る」というトピックはファンの関心を集め、まだ21歳の福永祐一騎手にとって、それはとてつもないプレッシャーとなって彼を襲いました。

参考記事:「頭が真っ白になり、逃げてしまいました」から始まった福永祐一のダービー…4年で3回勝つまでに語っていたこととは - NumberWeb

日本ダービーではまさかの逃げ。2番人気を大きく裏切る14着の大敗。番手を進んだセイウンスカイも4着に終わった一方、スペシャルウィークは2着ボールドエンペラーに5馬身差をつける圧勝で、武豊騎手が念願のダービージョッキーの称号を手にします。

本来ならば、スペシャルウィークが存分に讃えられるべきこの日本ダービー。もちろん、彼と武豊騎手にとって華やかなる記録と記憶として刻まれましたが、同時に「福永がやらかしたあのレース」としても、多くのファンのあいだで語られるようになります。

福永祐一騎手は、秋以降も神戸新聞杯以外で騎乗。京都新聞杯(G2)でスペシャルウィークの2着、菊花賞(G1)でセイウンスカイの5着、有馬記念(G1)でグラスワンダーの6着と健闘するものの、ついに乗り替わりの決断がくだされます。

とはいえ、面白い事実もあります。古馬となったキングヘイローに3回騎乗する機会があった福永祐一騎手は、1999年マイルCSでエアジハードの2着、1999年スプリンターズSでブラックホークの3着、2000年安田記念でフェアリーキングプローンの3着と、すべて馬券に絡みました。

【柴田善臣騎手とキングヘイロー】
旧5歳、現4歳となったキングヘイローの手綱を取ることになったのは、当時33歳でG1も4勝していた柴田善臣騎手でした。有馬記念6着と好走したキングヘイローは、続く1999年の東京新聞杯(G3)で2.1倍と1番人気に支持され、先ほど写真の解説で述べたとおりケイワンバイキングに0.5秒差をつけて快勝。続く中山記念(G2)も1.8倍で2着ダイワテキサスに0.3秒差の勝利をあげ、堂々と安田記念に向かうもののエアジハードから1.8秒差の11着。

横山典弘騎手や福永祐一騎手に乗り替わり、さらには明けて2000年にはフェブラリーSでダートまで試しながら、ついに迎えた高松宮記念。柴田善臣騎手の抜群のコース取りに答え、G1で10度負けた不屈の超良血キングヘイローは、ついに外からすべてのライバルを抜き去り、ビッグタイトルを手にしました。

柴田善臣騎手は以後も2000年安田記念を除いて手綱を取り、ラストランの2000年有馬記念では最速の上がりで9番人気ながら4着と好走。自ら王者としての気風を保ったその走りは、彼の卓抜した実力と距離適性を示すエピソードでもあります。

柴田善臣騎手は通算12回騎乗。つまり、福永祐一騎手の13回と柴田善臣騎手の12回を除いては、1998年神戸新聞杯の岡部幸雄騎手(1番人気3着)と1999年毎日王冠の横山典弘騎手(2番人気5着)の1回ずつのみで、この2人によって「不屈の王」は生まれたといっていいでしょう。

【キングヘイローの主戦騎手】
こうした事実から、「キングヘイローの主戦騎手」は非常に悩ましい問題であり、2000年代を代表する名騎手を育てた馬として、どちらかに絞るのは厳しいのではないかとも考えられます。

福永祐一騎手にとっても、キングヘイローは「最初にして最大の挫折」「恩返しをしたい存在」でした。2021年、母父にキングヘイローを持つピクシーナイトがスプリンターズSで見事な勝利。鞍上にはまさしく福永騎手が迎えられており、「それにキングヘイローの血が入った馬でGIを勝てたのは最高にうれしい。恩返しができたと思います」と発言しています。

参考記事:【スプリンターズS】新電撃王!ピクシーナイト 福永「キングヘイローに恩返しができた」 - サンケイスポーツ

一方、柴田善臣騎手にとっても、キングヘイローは「G1競走」という舞台をともに戦い、優勝の誉れを掴んだ相棒です。軽々しく「いや、キングヘイローの主戦は福永だ」と言ってしまうのは、柴田騎手にとっての失礼になるでしょう。

柴田善臣騎手は2021年現在、55歳となった今も現役として騎乗。美浦のリーディング争いをしていたころほどの勝ち鞍を挙げているわけではないにせよ、円熟の騎乗でファンを沸かせてくれています。彼もまたキングヘイローを育て、同時にキングヘイローとともに歩んだ存在なのは間違いありません。

「馬に乗る事が好きだからね。乗せてもらえる限りは乗っていたいですよ」という笑顔の「相談役」に、どうして後ろ足で砂をかける真似ができるでしょうか。

参考記事:「馬に乗ることが好きだからね」JRA“最年長”重賞制覇の柴田善臣(55)はなぜ勝ち続けられるのか? <蛯名正義との凱旋門賞秘話も> - NumberWeb

キングヘイロー(2ページしかないのに)

ダンシングブレーヴは、80年代の欧州最強馬と言われる。1986年のキングジョージと凱旋門賞を制覇。後方から追い込んでくる豪快な競馬ぶりで人気を集めた。
凱旋門賞を勝った直後に、ダンシングブレーヴは地球を半周した。
世界制覇を目標に、ロサンゼルス近郊のサンタアニタパークに登場、ブリーダーズカップ・ターフに出走した。4着に敗れたが果敢な挑戦は大きな称賛を浴びた。
ダンシングブレーヴは、競馬が国際化していった新しい時代を象徴する世界的スターホースだった。

記述そのものは問題ないんですが、キングヘイローの2ページのスペースを、1ページ分は父ダンシングブレーヴと母グッバイヘイローの話題が占めています。これ、キングヘイローの記事なんですよ……。

協和牧場で繋用されたグッバイヘイローは、初年度から3年続けてナスルエルアラブが配合された。

「繋用(けいよう?)」。調べた限りでは、誤植で使用しているウェブサイトしか見つかりませんでした。やはり養うほう、「繋養(けいよう)」が正しいのではないかと考えられます。

参考記事1:飼育と飼養の意味と違い 繋養も含め同じ意味でいいらしい - Umas!
参考記事2:引退名馬繋養展示事業について - 引退名馬

出生の経緯からしてスターになる要素を備えていたキングヘイローは、新馬から東京スポーツ杯まで3連勝して、一躍クラシック候補として騒がれるようになる。
だが、今になって振り返れば、その評価は両親の高名さで上げ底された部分があった。

これ、キングヘイローがようやく本題に入った1行目と2行目で、もう2ページ目も4分の1終わってるんですよ。スペースの配分を間違ったのではないでしょうか。

「キングヘイローが両親の血統で期待された」のは間違いありません。しかし、血統理論を予想に組み込むのは競馬の主流です。それを言い始めたら、当時絶対的な存在になっていたサンデーサイレンス産駒かつ母父マルゼンスキーと武豊騎手のそろったスペシャルウィークなど、「両親と騎手のおかげで底上げされている」ということになりかねません。

その点であれば、アーニングインデックスという点では不振だったシェリフズスターから生まれたセイウンスカイをほめるべきであって、血統に違わぬ実力を見せたキングヘイローやスペシャルウィークを下げる必要は何もないわけです。

キングヘイロー(この方はキングヘイローが嫌いなのか)

クラシック戦線ではスペシャルウィークとセイウンスカイが同期にいて三強として括られたが、中長距離の能力では他の2頭が一枚上だった。だが、ファンは納得しない。抱いた期待が大き過ぎた分、現実を認めるのに時間がかかった。
また、クラシックで主戦を務めたのがデビュー3年目の福永祐一で技術的に不安視されていて、騎乗に批判が集中することになったのも、馬の実像を見えにくくした。

全方位失礼やんけ!

そもそもの話ではありますが、キングヘイローは2000mの皐月賞2着、3000mの菊花賞5着、1200mの高松宮記念1着、1600mのマイルCS2着、2500mの有馬記念4着というすごい成績を残しています。春のクラシック時点では間違いなく3強でしたし、セイウンスカイの勝利した皐月賞では先行して2分の1馬身差にまで迫りました。

結果的に5億円もの賞金を稼ぐにいたり、「その馬は、10度の敗北を超えて血統を証明した」というCMそのものの活躍を見せたわけです。

失礼ながら、この担当ライターの方が「キングヘイローがあらゆる距離で活躍した優駿である」という現実を認めるのに時間が掛かりそうですね。

スペシャルウィークとセイウンスカイが1998年牡馬クラシックですばらしい活躍をし、その走りが傑出していたのは事実です。しかし、キングヘイローが十分に勝ち負けと呼べる走りをしたことも、また戦績が示しています。

ダービーをオーバーペースで逃げて14着に大敗したことは、長く福永のトラウマになった。だが、古馬になって1200のG1で勝ち負けするようなスピード馬に乗って、はたしてダービーでなにができただろう。

古馬になってなお有馬記念で4着できるスタミナも持っていたんですが……。もしかしたら、キングヘイローの戦績を見たことがないのでしょうか。

そうでなくとも、古馬で短距離勝ち負けできる馬が、中距離でも活躍した例はいくらでもあります。例えば、1990年スプリンターズSの勝ち馬であり、ゲームアプリ『ウマ娘』にも登場しているバンブーメモリー。彼は現4歳(旧5歳)という古馬になった1989年高松宮杯(G2・2000m)でメジロアルダンの2着、さらに翌年の同レースでは2着のシンウインドに0.3秒差をつけて優勝しました。そこから4走後にスプリンターズSを制しているわけです。

知ってて言っていればキングヘイローが嫌いなだけでしょうし、知らないで言っていればさすがに残念な内容です。

岡部幸雄に乗り替わった神戸新聞杯を3着に敗れたことで、ようやくファンや関係者は現実を直視した。キングヘイローは呪縛から解かれた。

「呪縛から解き放たれた」後に2200mの京都新聞杯、3000mの菊花賞、2500mの有馬記念とすべて1秒以内に好走しています。特に、京都新聞杯はスペシャルウィークと接戦です。さらに、何度も述べているように、テイエムオペラオーの勝った2000年有馬記念のラストランで0.2秒差の4着です。

翌年、キングヘイローはマイル路線に転身。東京新聞杯と中山記念を連勝したことで、今度はマイルのキング誕生かと騒がれたが、この路線でもタイトルは遠かった。

同年秋に福永祐一騎手を鞍上に迎え、マイルCSでエアジハードから0.2秒差の2着です。勝ち負けといえるため、「タイトルは遠かった」という描写は行き過ぎでしょう。より適した描写への変更を提案します。

キングヘイロー(すべては偉大な両親のおかげ?)

高松宮記念は一枚看板としては正直地味なタイトルだが、引退したキングヘイローは100頭を超える繁殖牝馬を集める人気種牡馬になった。

出ました、すでにたくさん拡散されている問題発言。高松宮記念の前身は、1967年に創設された中京大賞典です。1970年に高松宮宣仁親王より優勝杯が下賜されたことを受け、翌年から「高松宮杯」として改称されて新設。中京に新たに誕生した芝2000mコースの伝統あるレースとなりました。

高松宮杯の勝ち馬には名馬の名前がずらりとそろいます。1974年のハイセイコーを始め、トウショウボーイ、ハギノトップレディ、ハギノカムイオー、ラグビーボール、オグリキャップ、メジロアルダン、バンブーメモリー、ダイタクヘリオス、ナイスネイチャ、マチカネタンホイザと、ファンの心に残る優駿たちばかりです。

マチカネタンホイザの勝った1995年の翌年、1200mに短縮してG1に昇格。ナリタブライアンの参戦で注目が集まったこのレースを制したのはフラワーパークでした。さらに翌年の1997年はシンコウキングが勝利。ここで高松宮杯の名称が終了し、1998年からは高松宮記念として現在にいたります。

高松宮記念の時代になっても、多くの愛される馬が勝利してきました。改称直後の勝ち馬シンコウフォレストを始め、マサラッキ、キングヘイロー、トロットスター、ショウナンカンプ、ビリーヴ、サニングデール、アドマイヤマックス、オレハマッテルゼ……と、1頭ずつ書き始めたらきりがありません。さらに、2015年には香港スプリント馬のエアロヴェロシティが勝利。国際競走としてもその存在感を示しました。

「G1」とは競馬界における最大の誉れであり、地味であるはずがありません。1勝1勝がそれだけですばらしいことであり、そのなかにおける重賞は輝かしい栄誉であり、G1タイトルともなれば、名馬への道を踏破した馬にだけ贈られるものです。

参考動画:2000年 高松宮記念(GⅠ) | キングヘイロー | JRA公式 - YouTube

1971年から50回以上開催されているこの競走が地味なのであれば、いったい何が一枚看板として「派手」で「誇れる」タイトルなのかという話です。おそらく、短距離G1を1勝のみという事実を「当てこすり」たいのでしょうが、逆に日本競馬の蓄積を否定している文章になってしまっています。

現役時代さんざんギャップに悩まされた父母の名声が、種牡馬になったキングヘイローを助けてくれた。

よりによって、これがラストの文章です。ダンシングブレーヴとグッバイヘイローの血統的な裏付けは確かに魅力的ですが、そもそもこの2頭の名声が現役時に「マイナス」であったことなどありません。ギャップは一部ファンが勝手に感じていたことであり、真摯な人たちはその活躍を強く願い続けていました。

そのうえで、1200mのG1を勝利するスピード、2500mや3000mのG1で掲示板入りできるスタミナ、それぞれのレースでベストに近い上がりを出せるスピード競馬への対応、2歳時から活躍できる仕上がりの早さ、3歳のクラシック戦線から古馬になってなお持続する成長力の高さ、ノーザンダンサー系やミスタープロスペクター系の繁殖牝馬との相性の良さ、かつ実際に産駒に伝わる繁殖能力の高さ、あらゆる要素がキングヘイローを長く活躍する種牡馬にしました。

また、キングヘイローは種牡馬入り当初は受胎条件で120万円の種付け料でしたが、カワカミプリンセスやローレルゲレイロなどの活躍馬が出たことで、ピーク時には350万円にまで上昇しています。

以後もコンスタントに活躍馬を出し、近年になって母父として大いに評価されるにいたりました。

参考記事:キングヘイローの種付け料の推移と種牡馬成績 - ほどよい競馬

キングヘイロー(この2ページで良かったところ)

写真。

以上です。

何かありましたら、ツイッターまでご連絡ください。

次回はハルウララを予定しています。彼女を貶めない形での記事を心がけてまいります。