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【検証】『優駿図鑑』(2021年10月4日発行/ホビージャパン)は本当にひどいのか(第5回)

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【検証】『優駿図鑑』(2021年10月4日発行/ホビージャパン)は本当にひどいのか(第4回)
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【検証】『優駿図鑑』(2021年10月4日発行/ホビージャパン)は本当にひどいのか(第6回)
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本原稿の引用は、特記していないものはすべて以下の書物を出典としています。

出典:優駿図鑑 - ホビージャパン

全体を3行でまとめると

● 障害競走とダート競走と冠名「タマモ」を貶めてくる
● 存在しないかもしれない法律が現れる
● スペースの都合からか、錦野牧場関連の逸話はありません

タマモクロス(脚質)

脚質:追い込み
Best Race:'88天皇賞(秋)

2番手からの競馬でオグリキャップとの戦いを制した1988年天皇賞(秋)がベストレースって書いているのに、脚質が追い込み……?

ちょっとタマモクロスが1着または2着、すなわち連対したレースの出走頭数と通過順位を抜き出してみましょう。これが例えばハーツクライであれば、追い込みで連対した数が多く、中心的な脚質は追い込みであると判断もできます。もっとも、あの馬はドバイの逃げも含めて「自在性を示した」といえそうですが。

加えて、通過順位の右側に着差を示していきます。正の値の場合は2着タマモクロスと1着馬との着差で、負の値の場合は1着タマモクロスと2着馬との着差です。

[1987年]
4歳上400万下:16頭立て 4-5-3-5(-1.2)
藤森特別(400万下):14頭立て 6-4-1-1(-1.3)
鳴尾記念(G2):13頭立て 13-13-10-8(-1.0)
[1988年]
スポニチ賞金杯(G3):16頭立て 16-16-14-15(-0.1)
阪神大賞典(G2):7頭立て 3-3-3-3(0.0) ※ダイナカーペンターと1着同着
天皇賞・春(G1):18頭立て 11-10-8-5(-0.5)
宝塚記念(G1):13頭立て 8-8-6-5(-0.4)
天皇賞・秋(G1):13頭立て 2-2-2(-0.2)
ジャパンカップ(G1):14頭立て 12-12-7-4(0.1)
有馬記念(G1):13頭立て 12-12-12-6(0.1)

<最初のコーナーの通過順位一覧>
4,6,13,16,3,11,8,2,12,12
<最後のコーナーの通過順位一覧>
5,1,8,15,3,5,5,2,4,6

道中基準だと「追い込み」、最終コーナー基準だと「差し」、好走スタイルでいえば「まくり」、総合的に判断するなら「自在」ですね。これはもう、「いくつも勝ちパターンを持っているすごい馬」という結論にたどり着いたようです。

タマモクロス(障害競走とダート競走への偏見)

あわやダート転向
どんづまりに一発逆転
「もう障害にいくしかないべ」
愛想をつかされた馬の行く末はほとんどが障害転向と相場が決まっていた。

ご覧ください!

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もちろん、当時のダートの扱いや賞金体系を考えると、ダート転向が「稼ぎのうえでは頑張らないといけない場所」というのも事実かもしれません。それでも、ダートで活躍する名馬は、当時の中央にも地方にもいたことを忘れてはならないでしょう。代表的な馬としては、フェートノーザン、カウンテスアップ、ダイコウガルダン、ロジータ、トウケイニセイといった名前が挙げられます。ハイセイコー産駒のライフタテヤマもいますね。

加えて、障害競走です。障害競走もまた欧州競馬と同様にひとつの文化を形成しており、「愛想をつかされた馬だから入障する」とは断定できません。昔も今も高い格式を誇る伝統のレース形態であり、「平地競走とは違う能力が求められる戦い」と考えるべきです。

また、障害練習によって足腰が鍛えられ、平地競走にて激走するケースは、過去から現在にいたるまでいくらでも存在します。特に有名な例としてメジロパーマーがおり、彼は障害競走を経験したのちに、宝塚記念と有馬記念の春秋グランプリ連覇を成し遂げました。

1980年代の有名な障害競走の名馬といえば、メジロマックイーンの項目でも紹介したメジロアンタレス、この場所で大いに才能を開花させたキングスポイント、障害競走ではついに連対率100%のまま引退したヤマニンアピールなどが挙げられます。

2000年代から2021年現在までも、愛すべき障害馬は多く存在します。なんといっても、オジュウチョウサンは同一JG1競走5連覇を始めとした多くの偉業を成し遂げましたし、彼と名勝負を演じたアップトゥデイトの存在も忘れてはいけません。日本の障害競走は海外からの評価も高く、中山グランドジャンプを3連覇したカラジを筆頭に、セントスティーヴンやブラックステアマウンテンといった馬たちが激戦を勝ち抜きました。

私事で恐縮ですが、ここまで名前を挙げた馬以外で思い出深い障害馬としては……ゴーカイ、ブランディス、ギルデッドエージ、ビッグテースト、キングジョイ、マルカラスカル(あの逸走はヒヤヒヤしました)など様々な名前が浮かびますが、なんといっても「出津さん、年末の中山大障害で今年初勝利がJG1勝ち」で胴上げまでされたエピソードが懐かしい、メルシータカオーが懐かしく感じます。そうなると、同じメルシー冠で武宏平厩舎のメルシーエイタイムも思い出してしまいますね。

大きく脱線してしまいましたが、この記事は出だしが「本当に良くない」と感じます。まずもって書くべきでない事柄でしょう。

1980年のダービー馬オペックホースは、ダービー後全く勝つ事ができず、結果、記録的な不名誉な32連敗で引退するが、途中どうにも手の打ちようがなく障害転向の計画があったという。
今でこそ、名馬列伝に名を連ねるようになったタマモクロス。彼も、障害を目指す一歩手前までいった馬だ。

なので、「違う活躍の場を求めるという意味での障害競走の検討」を、客観的な立場から簡明に書くことが推奨されるわけです。読者の反感を煽ったところで、何も良いことなんてありません。まして、当時の関係者が読んだら、どんな気持ちになることか。

ちなみに、「記録的な不名誉な32連敗」は私の誤植ではありません。ちゃんと原文ママの引用です。

タマモクロス(オーナーの冠名批判?)

攻めあぐねた陣営。タマモなんて名がついたからじゃねぇかなんて軽口も叩かれた。馬名タマモの由来となったのは、馬主の三野道夫の出身地香川の高松城の別名、玉藻城にちなんでいる。日本で最大の海城で難攻不落の名城として名高い。攻めあぐねた城の名が由来ではということか。

その言葉を三野オーナーの前で言えるんですか、と真顔になる記述です。三野道夫さんは古美術商であり、タマモ株式会社の代表でもあります。玉藻城の記載はそのとおりで、同じ公営競技の高松競輪の開設記念競輪は「玉藻杯争奪戦」という名称です。つまり、この文章は香川県民や城郭ファンにもケンカを売っている内容なのですが、ライターの方は「上手いこと言ってやった」という感じなのでしょうか。

タマモ冠は三野道夫オーナーから三野四郎オーナーに引き継がれ、2021年10月現在も活動中。名牝ホットプレイから生まれた兄弟、タマモホットプレイ、タマモグッドプレイ、タマモナイスプレイ、タマモトッププレイ、タマモベストプレイ、タマモビッグプレイなどが近年で代表的なところでしょう。

また、ネーミングセンスも面白く、ホットプレイの娘であるチャームポットから生まれた馬たちは、タマモティーポット、タマモケトル、タマモティータイム、タマモダイジョッキ、タマモテラコッタと命名されています。

実は、タマモには障害の名馬もいます。タマモグレアーがそれであり、平地でも1600万下(現在の3勝クラス)まで勝ち上がったジェニュイン産駒、母父カコイーシーズのお馬さん。2010年中山大障害(JG1)でバシケーンの2着、2011年京都ハイジャンプ(JG2)でランヘランバとの接戦を制して重賞ウィナーとなりました。

参考資料:パカパカ工房 - Twitter

タマモグレアーは引退後に功労馬となって、2018年のパカパカ工房さんのツイートによれば、福島の「馬・デイズクラブ」で元気に過ごしていることが確認されています。2015年新潟大賞典の優勝馬であるダコールともども、伝統祭事である相馬野馬追祭に参加しているようですね。

タマモクロス(下げることしかできんのか)

しかし、大変身。初勝利から半年後の秋10月。京都の芝に戻り、5番人気と期待はされていなかったが、フタをあけると2着以下に1秒2、7馬身差の大楽勝をおさめ、どんづまり人生に一発逆転を放ったのだ。しかも、時計は同日に行われた菊花賞トライアルのG2京都新聞杯勝ち馬のレオテンザン(菊花賞6着)よりも0秒1速い優秀なものだった。

どんづまり人生ってなんやねん。タマモクロスはダートから芝に戻って一気に成長を見せた例に入るのですが、これも前段の「障害練習が良い調教になるパターン」に近いもので、「ダート競走で足腰が鍛えられた」良い効果の発露としても考えられます。

ナニがあったのか。まだ条件戦を勝ったばかりのタマモだが、誰もが驚きを交えて邪推した。体重がデビュー時456kgで、この秋の初戦勝ちで逆に440kgと減ってしまい、男馬にしては小柄なままだった。エサ(飼葉)の配合でも変えたのか、調教方法を工夫したのか、特別な馬具でも付けたのか等々の質問が飛んだが、答えは「なにもしていない」だった。しかし、答えはあった。外見にではなく中身にあった。
心臓、人間でいうスポーツ心臓の持ち主だったのだ。タマモが未勝利の時に診た獣医師は「この子は心臓が特にいい。そのうち走るよ」と予見していたという。
心拍数26。これは皇帝シンボリルドルフと同じだった。

な、なにもしていない……。厩舎スタッフの日頃の尽力を全否定するような記述をせんでも。それとも、小原伊佐美調教師がそのように発言したのでしょうか。どうにもソースが見つからないですし、あったところで「書くか、それを、普通」という気持ちにはなるのですが。

心臓については、wikipediaにも記載がありました。『優駿』2012年11月号の73ページで、同内容が確認できるようです。

参考資料:タマモクロス - wikipedia

小原伊佐美調教師は大事にタマモクロスの将来を考えていた旨、複数のソースで確認できています。「関西の秘密兵器」とマスコミに期待されながらも、連闘での菊花賞出走という無理をさせませんでした。

心拍数について。wikipediaには日刊スポーツのソースが掲示されていますね。ただ、ソースによってはシンボリルドルフの心拍数は25前後や24といった内容になっており、何より「大きく強い心臓ゆえに、心拍数が小さいほうが心肺能力が高い」という事実を書いていないので、「とりあえずwikipediaから引っ張ってきたのでは」という疑念が拭えません。

マラソンでも同様の事がある。高橋尚子だ。高校の時の初の全国女子駅伝では区間47位中45位。大学のインカレでも2位止まりで芽が出なかった平凡な選手が、名伯楽・小出監督に出会い、「この子は走るよ」と見出され、日本記録→アジア記録→シドニー五輪金→ベルリン世界記録とマラソン6連勝。当時の心拍数が一般人60前後なのに38という驚異の強心臓を培っていた。酸素摂取能力がけた違いだったのだ。

あの……タマモクロスのスペース2ページしかないのに、なぜシンボリルドルフをすぐにスルーして高橋尚子選手の話を始めたのでしょうか……。興味深い内容ではありましたが。

心肺能力が強い競走馬としては、「通常の2倍の大きさの心臓だった」というアメリカのセクレタリアトがいます。さらに、日本の馬でもテイエムオペラオーがこの点ではシンボリルドルフ級にすぐれていたとのこと。平均的な競走馬が30~40のところ、テイエムオペラオーは25拍でした。この一事をもってしても、『優駿図鑑』内では評価の低いテイエムオペラオーながら、まことに傑出した存在だったことが窺われます。

参考資料1:心拍数と名馬の関係 - 一般社団法人京都馬主協会
参考資料2:【ズームアップ】心臓の強さが名馬の条件!JRA羽田獣医に聞く(1/5ページ) - サンスポZBAT!競馬

次走G2阪神大賞典1着同着のステップを踏み、一年前の同時期に未勝利戦をうろついていた馬がついにG1天皇賞(春)の大舞台へ。しかも1番人気にまで支持された。

前走まで900万下を「うろついて」いたのに、2001年京都記念を11番人気で勝ったマックロウさんディスってんのか。とはいえ、確かに1年で天皇賞(春)の1番人気になれたというのは、タマモクロスのすごいところです。

タマモクロス(芦毛の競馬禁止令?)

それにしても、60年前までは、芦毛の競馬禁止令により日の目を見ることがかなわなかった芦毛。それが芦毛同士の頂上決戦とは隔世の感を覚えるエポックメーキングな1988年暮れの一戦だった。

かなり困惑した記述です。なぜなら、「芦毛の競馬禁止令」というのがまったくの初耳だったためです。

参考記事:競馬法 - JRA

確かに1908年の新しい刑法施行により、「馬券禁止令」と呼ばれる勝馬投票券の発売禁止措置が取られました。この状況を改善するために奔走したのが、安田記念の名前のもとにもなった、日本中央競馬会(JRA)初代理事長の安田伊左衛門さんです。

参考記事:日本ダービー創設、安田伊左衛門さんの足跡 - 岐阜新聞Web

岐阜の豪農の息子として生まれた安田伊左衛門さん。帝国大学農科大学を卒業後、陸軍騎兵連隊に志願し、師団長の桂太郎中将と知り合うことになります。そう、のちに総理大臣にまで上り詰め、長期政権を樹立する、長州藩の重臣の家系出身である桂太郎将軍です。

安田伊左衛門さんは日清戦争に参加し、日露戦争にも留守役として召集されました。日清戦争時に日本の軍馬に品種改良の必要を感じ、以後良馬生産の体制づくりに奔走します。

この安田伊左衛門さんが所有した馬のなかに、53戦30勝で生涯すべて3着以内という華々しい成績を残したスイテン(水天)がいます。このスイテンは1902年生まれで1912年の現表記10歳、旧表記11歳まで走り続けました。そして、スイテンは芦毛だったのです。

本文の記載によれば、1988年の60年前、すなわち1928年までは芦毛が競馬に出ることを禁じられていたと読めますが、明らかに事実に反しています。

また、競馬法が施行されることによって馬券の発売が復活したのは1923年であり、これも年号の計算が合いません。

上記はタマモクロスの解説本文を締めくくる文章なのですが、実際に芦毛馬が競馬に登録することを禁じられていた時代があるのか、さらに追加の調査を実施する必要があるでしょう。

少なくとも、スイテンは日本国内だけでなく、日露戦争後のロシア帝国領ウラジオストクでも走るほどにすごい馬であり、公的な記録として戦績が残っています。

参考資料:スイテン - 弐段逆噴射

JRAのウェブサイトにおける芦毛の説明にも、本項目で扱ったような「芦毛禁止」時代があった旨の記載は存在しません。

参考資料:競馬用語辞典(芦毛) - JRA

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【2021年10月9日12時12分 追記】
本件に関して、ツイッターにて情報提供をいただきました!

昭和の初期、帝国競馬協会には"有能な軍馬育成"を目的にして、国から競馬レースが認可されていたのだが、次のような書簡が関係者たちの間でかわされている。
 競走馬ノ毛色ニ関スル件(昭和二年)
 [背景陣者各公認競馬ニ於ケル出走馬ノ毛色ニ付イテハ、明治四十三年馬政局長官口達ニヨリ芦毛、月毛、河原毛等ヲ避クルコトト相成候処馬産方針ノ変更セラレタル今日ニ於テハ上記毛色ノ出走ハ敢テ之ヲ禁止スル必要モ無之様被認候ニ付御詮議ノ上何分ノ御指示相成度………]
ようするに、帝国競馬協会理事長から、畜産局長にあてて、芦毛馬そのほかの出走禁止を解いてくれ、という請願書である。これを見ても明らかなように、明治末期から昭和初期にかけて芦毛馬の軍馬としての有用性を認めなかった国の狭小な政策のため、日本に芦毛馬が輸入されることが少なかったのであった。

出典:『優駿』1988年10月号(52ページ) - 日本中央競馬会

すばらしい……!

非常にありがたい情報提供です。上記項目で挙げたスイテンは1912年、すなわち明治45年にして大正元年まで走り続けました。しかし、そこから昭和初期にいたるまで、すなわち『優駿図鑑』本文が示すとおり、1928年(昭和3年)のあたりまで芦毛や月毛や河原毛といった馬の輸入が減らされ、競馬への出走も制限されていたと考えると、これを矛盾なく取り込むことが可能です。

競馬の文化史を知ることができるとともに、昨今の「『選択と集中』のデメリット」を考えるきっかけにもなるエピソードといえるのではないでしょうか。

『優駿』にて上記の記事を担当されたのは、ノンフィクション作家である木村幸治氏とのことでした。浅学な私にとっては初めて伺った名前ながら、検索をかけてみると『調教師物語』や『君は野平祐二を見たか? 日本競馬「伝説」の男の物語』といった著書の出版が確認でき、その手によるものが『優駿』に掲載された事実を踏まえても、「芦毛の馬にとって受難の時代があった」と推定できます。

そうした時代を経て、タマモクロスやオグリキャップ、ウィナーズサークル、メジロマックイーンといった名馬たちが出てきたことは、なるほど「歴史は大きく変わるものだ」と感じさせるに十分な内容といえるでしょう。====
【2021年12月2日 16時00分 追記】
ツイッターにて、追加の情報提供をいただきました!

『日本競馬史第四巻』において、「明治43(1910)年に新馬戦に芦・河原・月(栗)毛の出走を避けるよう口達があり、帝国競馬協会の要望で昭和3(1928)年にその制限が緩和された」旨の記載があったよし、ご共有いただいたものです。

先述のとおり、それ以前はウラジオストクに遠征したスイテンなどがいたわけで、時代の移り変わりのなかで、マイナーな毛色の馬たちも翻弄されていたといえるでしょう。
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タマモクロス(芦毛ワンツーミニコーナーの脱字)

others ライバル or 仲良し?
芦毛は芦毛を連れてくる!

このように題された、G1レースでの芦毛ワンツーに特化したミニコーナー。面白いデータだったのですが、ひとつだけ残念なのが馬名の脱字でした。

2010阪神JF 2着 ホエーキャプチャ

クジラがホエー豚になってしまった……。クロフネ産駒のホエールキャプチャの「ル」が抜けてしまいました。2012年ヴィクトリアマイルを制するなど、30戦7勝で5億3,231万円を稼いだ名牝です。彼女の1番仔であるアルママ(オルフェーヴル産駒)は、英ダービーに登録したことでも話題になりました。2021年10月現在も5歳で現役を続けています。

何かありましたら、ツイッターまでご連絡ください。

次回はエアシャカールを予定しています。1ページなので、ほかの馬も同時に行うかもしれません。