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インフルエンザと700円のうどんとワクチン
「なんでだよ!もう嫌だ!!」
我が家を怒号が駆け抜けた。
夫がインフルエンザで倒れ、気力だけで乗り切っていたものの、ついに私も感染した。
我が家には不健康な大人と元気いっぱいの幼児だけが残った。
保育園では大人が感染していたら、子供が元気でも預かってもらえない。
逆に市の病児保育は、子どもが元気な場合は預かり不可だった。
正直、民間の病児保育を利用するには、そこまでの収入を得られていないというのが現状だ。
頼みの綱のばーばには、こんな時に限って娘がばーばの家に行くのを泣いて嫌がり、「預ける」ことができなかった。
なんで、なんで、なんで。
その週は、長い間楽しみにしていたイベントや人と会う約束が多くある週だった。
全部吹っ飛んで、私はひとつひとつにキャンセルの連絡を入れていった。
今回のインフルエンザが引き金となり、それまで蓄積されていた色々なものが決壊した。何かが崩れ去った。
きっかけは仕事部屋から出てきた夫が何気なく言った
「今日のごはん何になった?」の一言だった。
「なんでごはんのことも私が考えないといけないの!?
なんで今日に限ってばーばに預けられないの!?
なんでいま、インフルなんかもらってくるんだよ!
なんで!よりによって!!今なんだよ!!!」
40手前の大人が、他にもなんのかんのとまくし立てて、幼児のように床にへたり込んで泣きじゃくった。
その姿は滑稽だったし、何より惨めだった。
私の口から飛び出す言葉がすべて、人のせいだった。
それがより、惨めさを強調していた。
受け入れがたい全ての事柄に、せめて納得のいく理由が欲しかった。
それがたとえ、誰のせいでもない事柄だったとしても。
眠りの刑に服しているかのようにひたすら眠り続けた私は、
ようやく2日目あたりにモゾモゾと布団から這い出してきた。
なんとか物事を考えられるようになったので、出前の注文もできた。
お腹が空いたら、自分で作れなければ、出前を取ればよいのだ。
近所の個人経営のおそば屋さんは、30分ほどで配達もしてくれる。
偏食な娘でも、うどんなら食べられる。
受け取りはインフルエンザ明けの夫がすればよい。
私が頼んだのはさっぱりした「めかぶうどん」。700円なり。
病み上がりに美味しいうどんを食べて、なんたかとてもホッとした。
それより何より、あったかいうどんを置いて風のように去っていった出前のおじさんが、すごくかっこいいスーパーマンに見えた。
(おそらく電話の対応も届けてくれた人も同じ人なのでは?)
失ったものや、得られなかったもの、できたはずのことを
指折り数えていた自分。
でも、うどんをすごい速さで調理して持ってきてくれたおじさんは、
日々そんな気持ちでは仕事をしていないんじゃないだろうか。
目の前にあることを淡々と丁寧にやっていく。
いつだって、私が勇気づけられるのはそういう人だ。
例えば、お医者さんごっこをする時に、
娘はやたらと私に「わくちん」と言って注射を打ちたがった。
娘の中では、ワクチンは「病気を治してくれるなんかすごそうな薬」と認識されているのかもしれない。
ばーばの家に行きたがらなかったのも、娘なりに心配していたのかもしれなかった。
いま目の前にある幸せを丁寧に拾っていく。
いまできることを着実に進める。
それを続けた先に、気づいたらもっと遠くに行けている…
そんな未来はあるのだろうか。
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