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「罪悪感」「恥」「恐れ」というお友だちの違いを考察してみた

“ココロもカラダもまるっとあ・かるくマリ真理学”の
マリエ・セレスティーヌ斉藤です。

 今日は人類にかなり深く巣食っている三大内的動機「罪悪感」「恥」「恐れ」の違いを考察してみようとおもいます。この三つの言葉はよく出て来る割には、境界線が曖昧で、適当にセットで使われている気がします。もちろん「不安」という要因もありますが、不安はこれらの内的要因の結果生まれたものとも言えますし、外的要因が選択肢によっては悪い結果を生むのではないかということから生まれる不安もありますから、この三つに関しては、特に「内的要因」の代表選手と言うのが相応しいかもしれません。

 「罪悪感」人は罪深いという刷り込み

 まずひとつめ。「罪悪感」は、自分が何かに対して不利益をもたらしたかもしれない、悪いことをしたかもしれないという罪の意識にさいなまれることですね。これって、実際に個人的に何かを誰かにした(しなかった)ということから生まれて私たちに刻まれている、というのと、そういう具体的な事例もないのに持っちゃっているものがあると思うのですが、ちょっと掘ってみましょう。

 前者の罪悪感は実際の自分の行為、家族間、友達関係や仕事の現場でやってしまったことで持つものですね。これはたくさんあって大変です。私ですらたくさん持っていると思います。意識無意識関係なく、子どもにこうしてしまったから子どもがこうなってしまった、友だちに正直になれなかったためその友だちが不利な立場になってしまった、部下をクビにしないといけなかった等、たくさんの罪悪感と共に人は生きています。それは、ハッキリとした事象があって自分が選択せざるを得なかった行動を起こしたことで持つものです。
 そして、私たちの中には、なんとなく全員持っている罪悪感ってあると思うんですよね。そのひとつは、親、特に母親が、自分の行動が原因で落胆したとか悲しんだ、とかがデフォルトとなり、しまいにゃ、父母が喧嘩をするのも自分のせいじゃないか、と思ってしまったり。わたしたちは、大人になった今でも母親はこのことを気にいるだろうか、という問いとともに行動をしていると思うんです。これはもう無意識にそうなっていると思います。社会生活の中でもこの行動が母を残念がらせるかもしれないという根拠のない薄っすらとした罪悪感が全細胞と神経にいつも振動しているかもしれません。それゆえに、デフォルトで自己否定感を感じつづけ、いつも自分にダメ出しをしている状態なのです。
 また、わたしは、キリスト教をはじめとする宗教におけるデフォルトの罪悪感もあるなあって思います。たとえば、キリストがみんなの罪を背負って死んだっていう事実を知り、「そ、そっか、、ダメダメな私を庇って逝ってくれたのね、、」なんてなんとなく思っているはずです。それは、アダムとイブが林檎を食べたという原罪を贖ってくれたということらしいですが、まあ、どう取ろうと全世界の人が、人とは罪深いものだ、という概念を持たされちゃっていると思います。そして、どの宗教にも共通している、欲を是としない教義などからも、私たちはたくさんの罪悪感をしょわされています。

 でも私は、それがあまり悪いことばかりだとも思っていません。キリストは、人類に初めて「愛」の概念を教えてくれたし、罪悪感自体は、自分の愛に基づいて生まれてきている概念です。「欲」を意識することで人々との調和などに思いが至り、初めて進む方向も見えます。大事なのはいろいろな罪悪感を持っているっていう無意識の意識に気づくことかなって思います。

 でも、罪悪感を持たない様に行動を起こすって、優しくなければならないとか、人の役に立たなければならない、寄付しなければならいとか、いわゆる良い行いをしなければならない、みたいなことがあるかもしれませんよね。それが自分のしたいことかどうかは置いといて、そこはかとない居心地の悪さが自分をそういう行動に掻き立てているのかもしれません。それは、無意識に擦り込まれた、母親を悲しませたのは自分、生きているだけで迷惑的な刷り込みなのだと思います(もちろんこの考えが全てではないかもですが)。 
 じゃあ、どうしたらいいんでしょうね。とにかくまずは「罪悪感あるよな〜」っていう認識から始まると思います。そして、できればデフォルトを生きているだけオッケー👍という風にして、その上で、自分の欲や未熟さを素直に認め、生き方や人に対しても正直に真摯にむきあっているだろうか、と意識し続けるだけでいいのだと思います。

「恥」は自分の理想から生まれる

 何をして「恥」とするか。
 あえて”恥”っていうとなんか難しいけれど、どういう時に恥ずかしい!となるかって考えてみると、例えば、スカートがめくれていた、社会の窓が開いていた、逆上がりができなかった、クラスでビリッケツだった、今やマスクを外すのが恥ずかしい(笑)とまあいろんな恥ずかしいがありますよね。

 この「恥」という概念、よく親とかに言われる「恥ずかしいと思わないのかい!」と恥を強要されるような台詞がありますが、これよーく考えると、その人が自分を直接否定しているわけではなくて、自ら進んで自らを否定しなさい、と言われているという矢印があるということがわかりますでしょうか。
 つまり、恥というのは自分から持たないと成り立たない性質のものです。罪悪感もそうと言えばそうですが、恥の概念は、自らが自らの理想像を持たないことには成り立ちません。罪悪感との違いは、罪悪感は人が自分のせいでネガティブな思いを持ったということから生まれるのに対し、恥は、なんらかの自分に対する理想像があり、それを逸脱していると生まれて来る感情です。その理想は、見た目だとかからも持たれるので、行為があってもなくても人が絡んでいてもいなくても起きます。

 上の例で言いますと、スカートがめくれていたは、めくれていない自分を理想としていたわけです。
 「運動ができる」「勉強もできる」「容姿がいい」「身なりがきちんとしている」などの理想が崩れると「恥ずかしい」という感情を持ちます。
 マスクを外すのが恥ずかしい、はなんなんだかよくわからないのですが、わたしも、なんか顔が全部出るのが恥ずかしいと思ったりしている自分を発見するので、理想は、、、ちょっと難しいですね。顔が半分隠れていると、自分が理想の容姿でないことを隠せるからでしょうか。単純に服が体を隠しているように、顔も隠すのが普通と思い込んでしまったのかもしれません。  
 さて、その理想(像)ってどこから来たのでしょうか。それは、育てられた過程や社会生活で埋め込まれたことであることは確実です。容姿がいい運動ができる勉強もできる身なりがきちんとしているということが理想だというのは社会の中での評価が高いからです。もちろん人に親切にするなど良い行いをしないと恥ずかしいと思うかもしれません。それは人知れず行う行動などもあり、ゴミをポイ捨てするのは悪いことだと思っている人はそれをすると恥ずかしいと思います。ですから、その恥の概念は外から来たものでありますが、完全に自分に取り込んで自分の規範にしているので、人が見ていなくても恥ずかしいと思います。
 人は自分の規範に逸脱してはいけないと行動を決めているのです。

 人に自分がしたことでその人が悲しい思いをした、そんな自分が恥ずかしいと思うかも知れないです。それは自分の規範に照らし合わせた時の感情で、でも、罪悪感は必ず何かの対象があるところが違いです。

「恐れ」は怒られるかも知れないという予呪しゅう

 書いてみて「恐」という漢字と「怒」という漢字が似ていて怖くなりましたが(笑)、怒られるって怖いですよね。。まあ、これ、怒られるとは限らないのですが、受け入れられないとか、否定されるとか、馬鹿にされるとか、なきものにされるとか、つまり低評価を受けるかもしれない、ということから生じる感情ですよね。それもまだ起きていないことでです。
 
 これも今までの経験からの刷り込みというところは恥と同じですが、恥との違いは、外側に自分に評価を下す相手がいるということですね。何か自分が起こすアクションで不都合が起きるかも知れないという予測から生じる感情。

 ゴミのポイ捨てに関して全然問題ないと思っていないけど、世の中にはそれはいけないという考えがあると知っているので、それを見られると評価が下がるという「恐れ」からそれをしない。
 化粧をしてないとダメとは思ってないけれど、外に出ると容姿的に評価が落ちる「恐れ」があるので化粧をする。
 
 実際、何も物事は起きていないので、恐れというのは限りなく持つことができます。たくさんの経験からこうであらねば生きていく上で不都合が増えるという視点ばかりで物事を見てしまうと、自分の本当の望みにもブレーキをかけてしまいます。
 もちろん、世の中の規範に逸脱しましょうとは言っていません。ただ、実際本当に評価が下がるのかどうかは、やってみないとわからないものですし、自分の真価を発揮しない事でせっかくの価値を世間に見てもらう機会を自ら消してしまうことにもなります。恐れを持っている自分を見つけたら、実際どうなのかな、意外と大丈夫かもと思ったらやりたいことやってみたらいいと思います。

実際その三つのエレメントとどう付き合ったらいいだろう

 「罪悪感」は過去に起因しているので過去形、「恥」はしてもしなくても存在しているので現在形、そして「恐れ」はまだ起きていないので未来形です。人は、この三つの要因から自分の行動に制限をかけたり、自己評価を下げたりしています。この三つはいつもセットで使われていますが、分けてみると微妙に違います。共通点は、必ず”ねばならぬ”の概念があり、その概念は基本外側からやってきているか、外側との経験で生成される、とても一言では言い表せない複雑なものです。原罪は元々持っているものだというのも刷り込みです。なぜなら3歳の子が自分は生きているだけで罪深い生き物だとは思っていないからです。

 これらの概念と共にある我々。仲良くすべきか取り除いていくべきか。そんな単純な問題ではありません。
 まずは、そういう概念を持っているということに気が付き、なんでそんな概念を持ってるのかなあと思いを巡らせ、それができた時、それを持っていることで満たされたニーズ、何を大切にしていたのかに思いを至らせ、それから現実に対処していくことしかないです。

 例えば以下の様に考えてみることを提案します。
 
「罪悪感」:相手は本当に迷惑を被ったのだろうか、そう思っているのだろうか。聞いてみようか。それぞれにそれぞれの人生を生きるとはどういうことなのか学んでみよう。

「恥」:その理想のせいでわたしは人生を豊かにできているだろうか。制限になっていないか、もう少し自由でもいいのではないだろうか。ちょっと勇気を出して行動を変えてみようか。

「恐れ」:ほんとにそれは起きるのだろうか。起きたら対処できないだろうか。起きない様に何か対策を考えてみよう。関係者に聞いてみたらどうなんだろう。

もちろんこれで全部ではありません。でも、少しでも参考になって楽になってくれたらいいな、と思います。

 いずれにせよ、その「罪悪感」「恥」「恐れ」というあまり仲良くしたくないお友達を多かれ少なからみんな内包しています。意識的になることしかそのお友達を変容させることはできません。否定ではなく、変容、そして、自分と統合、カタルシスや昇華を迎えるためにも気づくしかない。

 みなさんには、このお友だちいますかね?私は正直たくさんいますよ〜〜!常に一緒に行動しています(⌒-⌒; )
 でもその存在も愛から生まれた自分の一部のものとして、受け入れて対応していきたいものです。

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