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締切までの心持ち

私の所属する劇団の座長は、わたしが作品を書き終わると「よく書いた!お疲れ!」とねぎらってくれる。

脚本家(を志す者)にとって、作品を書き上げることは当たり前で、それは大した能力ではないと思っていた。大事なのはその中身。面白いか面白くないか。人の心を動かせるか動かせないか。脚本としての魅力があるかないか。作品として成立するか否か。

書くことは誰にでもできる。
だが面白い作品を書くことはとても難しい。

これが私の概念。
今もおおむね変わらない。

変わらないけれど先日ふとプロットを書き上げて思った。

ひとつの作品を書き上げる。
もしかしたら、これは大層なことではないか

と。

中身に100%満足はしていなかった。
何度書き直しても、頭の中に「それでいいのか」がよぎる。
自分なりのロジックはあった。あったけれど自信はない。

だが明けない夜はないのと一緒で、締め切りが来ない日はない。

大丈夫、ちゃんと理解してもらえる。
でも待てよ。あの展開は分かりにくいのではないか。
登場人物に感情移入できるか。エモーショナルは存在するか。
もっとドラスティックな展開にしたほうが好まれるのではないか。
だがそれだと流れがぶっ壊れてしまう。
マジョリティなのかマイノリティなのか。
そもそも面白いか、これ??

締め切りの時間まで頭は回転を止めない。もう回転しているのかすら分からない。堂々巡りかもしれない。デジャブか錯覚か。
将棋のように、思い切って最後の一手を打ちたいのに、もぐもぐタイムが何度も訪れて延長を余儀なくされる。

もはや修正するのは語尾や接続詞だけになっている。
「これで行こう」「行くべきだ」そう魂は言っている。
大丈夫、ちゃんと書き上げたじゃないか。相手もプロだ、伝わるよ。
そう信じて(願って)書き上げたプロットを送信する。

送信して思った。初めて思った。
いやはや作品を書き上げるのは、もしかして中々にすごいことなのではないかと。

苦悩して、何度も書き直して、自分を削って、自分に鞭打って。
たとえ机に向かっている時間が短くたって、常に考えている。ふとした瞬間に視線はぶつからず、ずっと物語の展開が、登場人物の心情が、脳内でピンポンパンしている。たまに「あっ」とか「もしかして」とか「そうか」とか気味悪く呟いたり叫んだりもする。

そしてその作業は結局楽しかったりする。
なんなんだ。

締切を終え、次の打ち合わせまではこの上ない自由を感じる。
だが常に怯えと自信がそこにはある。

クリエイティブな作業は天才だったらひとりで結構。
でも天才じゃないからみんなでつくり上げる。

締切までの心持ちは裁判を待つ受刑者のようではあるけれど、死にはしないし、そこが終わりではない(終わりのこともあるだろうけど…)。戦わねばならないけれど、相手は敵ではなく、同志である。敵などいない。ただ面白いモノを産み落としたいと考える素敵な人たち。

少しだけ自分を褒めて、またパソコンと向き合おう。

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