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お風呂が入るまでのnoteチャレンジ

たった今、お風呂を入れ始めました。時間にして15分?20分?ほどでちょうどいいくらいに溜まるのでしょうか。

ボゴボゴボゴとお湯が蛇口から落ちて、すでに溜まっているお湯とぶつかる音に、時限爆弾のピッピッという電子音と同じくらい緊迫感を感じています。結局あれって、音どうこうじゃなくて、実際に迫ってくる事象(時限爆弾なら爆発、お湯はりなら満タン)に対して怯えているってことですね。

お湯が溜まったら、途中であれ、書き終える。

そんなゲームを自らに課してしまったのです。

ただお風呂と言うのはどこをもって満タンとするかは人によって違います。半分でちょうどよい人もいれば、8割9割溜めたい人もいるでしょう。

ただ私のお風呂は(最近のお風呂は?)ちゃんと適量に達したら「タララン~~♪」とメロディで知らせてくれるのです。今はそれにも怯えています。タラランがなる前に書き終えたい、しかし、いつ鳴るかは分からない。わたしは多めのお湯は好みません。6割くらいで十分なのです。

タラタラ書いてはいるけれど、このお話の出口は一向に見えません。

そもそも通常はシャワーが多いわたしが、今日お風呂を入れようと思ったのは、「お風呂で考え事をしよう」と思っているから。今書いている作品の展開を、考えなければいけません。机に向かってウンウン唸っていても思いつかないので、お風呂を入れることにしました。

お風呂が入るまでに、日課にしているnoteを認めようと、こりゃ時間も有効活用できるしナイスアイデアだと、そう思ってやってみたものの、ここで創作の脳みそ使ってしまっているようで(使ってないか)ちょっとだけ焦ってもいるのです。

いいアイデアは、かならずいい形になるとは限らない。

だけど、いい形が、成功するとも限らない。

今言えることは、いいアイデアでもいい形も生んでないことは確かだということ。それでも成功してしまうときもある。いや、ないか。そう思いたいだけか。

お湯の状況をものすごく確かめたい衝動に駆られている。わたしの一人暮らしの部屋に、お湯の音だけが滝のように響き渡っている。たぶん適量になればタラランが鳴るけど、もし鳴らなかったら?バスルームはお湯浸しになってしまう。でも意外とそんなに時間が経っていないのかも?見に行って5割にも満たなかったらカッコ悪すぎる。

わたしは誰と戦っているのだ?
この戦いは何のためにあるのだ?

きっと世の中の争いのほとんどは突き詰めたらこれな気がする。
相手や目的の見えない戦いに駆り出され

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