見出し画像

退屈なかもめたち

先日、友人の出演する映画「退屈なかもめたち」を観に、池袋のシネマ・ロサへ行ってきた。

行ってビックリ。

「ああ…ここか…そうか…ここだったのか…」

初めて行く場所だと意気込んでいたのに、知った場所だったことに、安堵と驚きと、故郷でもないのに郷愁を感じざるを得なかった。不思議。

シネマ・ロサは主にインディーズ映画を上映しているとのことで、上映前の予告にも一切知った映画は流れない。明らかに低予算で、どうしても画が暗くて、だけれども表現したい世界観は溢れていて、こちらサイドが感じる「面白くなさそう」と「面白そう」を見事に揺さぶってくる。

そうするうちに、本編が始まった。

構成としてはパート1とパート2に分かれていて、各パートも第一話、第二話・・・と刻まれている。

「かもめ座」という劇団(おおよそ趣味に近い、カルチャースクールのような劇団…と作中でも言われている)の、というよりはそこにいる人たちの悲喜こもごもを描いた作品。

パート1では主人公の女優がかもめ座に所属する俳優(男)の紹介で入団の面接にやってくるところからスタート。だが無愛想な男性劇団員がひとりやってきて、いきなり「これ読んでみて」と台本を渡し、二人芝居がスタートする。その男は次第に彼女との演技に夢中になり、イキイキとし始める。「あぁ、いるよなこういう人」と思いながら一方で「この話知ってるぞ」と台本が気になった。

かつて養成所に通っていた時、練習題材だった本だ。だけど内容が思い出せない。夫婦の取り留めない休日の会話。旅行の妄想ごっこする話。

・・・とストーリーは進んでいき、劇団を辞める人や休む人が出てきたり、新しく入ってくる人がいたり、一向に劇団としての進展も交代もなく、無情に、でも当然に、時は流れていく。主人公を取り巻く男性ふたりの恋愛っぽい描写もありはするが、付き合うだのどうだのというまでには至らない。

わたしの友人は長く劇団にいるまとめ役の女優を演じていた。何を考えているかよく分からない人物だが、「演劇のことは深く愛しています」という雰囲気を醸し出している。友人に当て書いたのだろうと思える箇所がたくさんあって笑えた。

そうしてパート2へ。

古株がいなくなったかもめ座を、主人公はか弱いながらも守っている。癖の強い新人が入ってきて、それから辞めたと思った男性ふたりが戻ってきて(彼らは彼女に恋している)、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を発表会で演じることに。

その稽古中も、惚れた腫れたのちょっとしたいざこざがある。主人公を想う男性ふたりのあれこれ。正直「んーいらないなぁ」と思ってしまった。劇団として公演に向っていく中で、必要な描写と思えなかったから。確かに劇団に(というかあらゆる組織において)色恋沙汰はつきものではあるけれど、この物語の芯を食うものではないと思ったし、その男が女に迫るエピソード自体がちょっと幼稚だったからというのもある。

そんなこんなも乗り越えて、『ワーニャ伯父さん』の公演は無事終了。と言っても詳細のシーンはないので、想像に留まるけれど。これから続いていくのかどうか、主人公はどうなったのかは描かれず、見るものに委ねられる形で幕は閉じた。

終わってから、友人と話した。

わたしが、新人劇団員(年配女性)の役者さんが良かったと伝えると、いたく納得していて、「あぁいう輪郭のくっきりした芝居ができないとダメなんだよね」と勝手に反省し出した。わたしは友人がぼやけた芝居をしているとは思わなかったので、頭にハテナが浮かんだけれど、彼女に言わせるとそういうことらしい。

わたしからすると友人は芝居を「勉強している」人だと思う。ワークショップに参加して、様々な演技のメソッドを学んでいるし、海外の演劇にも詳しい。勉強していないし、食わず嫌いするタイプのわたしからすると、演劇人/役者としてあるべき姿、そのものの人である。そう言う人だからこそ、感じるものがあるのだろうなと。まあ、くっきりしてましたけどね。

ま、それで後日談。

オーディション台本で使われていたのは、岸田國士の『紙風船』であった。ちょっと前に東京乾電池の舞台で岸田國士の作品を見ていたので、あぁこれが岸田節か、なんて思った。10年以上前養成所では何のことやら分かっていなかったが、今だとその面白さが少しだけ分かる気がする。

それと。この作品然り、「ドライブ・マイ・カー」然り、あまりにも自分の周りに「ワーニャ伯父さん」が溢れてきたので、いよいよ知りませんとは言えないと思い、図書館で本を借りて読んだ。

読んで、まず、謝罪したい念が込み上げてきた。

鑑賞後の感想で、色恋沙汰不要論を唱えたわたしだが、不要ではなく、必然だったことを突き付けられた。それはまさしく「ワーニャ伯父さん」のストーリーと同じく、主人公(エレーナ)に強く思いを寄せながら、決して叶うことのない悲しい男性ふたり(ワーニャ伯父さんとアーストロフ)になぞらえていたと分かったから。

大抵のエンタメはその背景や人物を知らなくても楽しめるし、そうあるように作られているが、やはり知っているに越したことはない。しかも”名作”と呼ばれる作品ならなおさら。もっと勉強しないとやはり。

正直、ワーニャ伯父さんの面白さはまだ身体に染みてこない。だがこれだけ愛され、受け継がれ、モチーフにされる作品の、魅力は絶対にある。しらふで読むと鼻で笑ってしまうような登場人物たちのやりとりは、きっと今の時代にも氾濫しているのだろう。彼らは人生に、世の中に絶望しながらも、今の環境で前向きに生きる姿を見せて、この物語の幕は閉じる。

そういうことなんだろう。

演劇をつくる意味が、創造する理由が、そこにあると信じて。

クリエイトすることを続けていくための寄付をお願いします。 投げ銭でも具体的な応援でも、どんな定義でも構いません。 それさえあれば、わたしはクリエイターとして生きていけると思います!