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戸田真琴「そっちにいかないで」を読んだ感想&内在世界の自己分析


生きる=孤独


彼女は"みている"。
眩暈がするほど狂おしく、美しい世界を。

私は切実に生きる人の"みている"ことを信じる。
信じるも何も、人はひとりひとり個別の環世界の中にいる、孤独な魂だからだ。
孤独は誤魔化すことができても、生きることには切り離せない、生命にとって当たり前の事実だ。

つまり、自分は自分しかやれない。
だからたまには脳を交換して、他人のみている景色をみたいと発狂寸前の心理状態になることがある。
出してッ!!!出してッ!!!
個人の脳や肉体という牢獄から!!!
この世のつまらなさに耐えてきた人々は一体脳にどういう特殊訓練を施してきたのか!!!教えろください!!!

しかし、それは不可能である。

では脳を交換することができない私たちは何をすれば良いのか?

それは誰かの「表現」...つくった映画、かかれた文章、撮った写真、描いた絵...脳を経由し出力するそれらをみれば、他人の脳の一部始終を目撃できる。
或いは今日、どんなメイクをしているか。なんでいつもと違うような服を着ることにしたのか。どんな音楽が好きか、嫌いか。どんな怠惰な1日を過ごしたか。それらもまた脳を経由した「表現」である。
だから厳密に言えば「表現者」ではない人っていないと思う。生きる限り。

だから他人の脳から出力された全てを私は真剣に受け止め、考える。"自分"しかやれない生命体の宿命である。


以下は、戸田真琴「そっちにいかないで」を読了した私の感想・分析、また他者をみることで気づく自己への分析も書き連ねたいと思う。
箇条書きになってしまう部分もあるがご容赦願いたい。

【感想・分析】〜「才能」は選べない〜

◎作品として著者本人を知らない人でも楽しめる
→まず、作品として相当にクオリティが高く面白いと感じた。
特に第1章において、彼女が眼差す世界の美しさがどのようなものであるか、鮮やかに想像できるような綿密さ。また"そっち"になろうとした女の子の狂おしいほど美しかった世界を自らの手で殺してしまった先に眼差す世界との違い。
不穏な場面の呼吸が早くなるようなリズムの取り方。今と昔が気づいたら同期している描き方。
また、受け取り手に委ね過ぎず余白をもたせる描き方のセンスがとてもある。

申し訳ないけどこれはちょっと「才能」の領域というか。なんで「才能」って選べないんだよ。「才能」なんかいらなかった人もいるだろうにさ。ふざけんなよ、気が狂いそうだ。

彼女のみている世界は明朝体との相性が良い。
また何かをみる際におそらく目を大いに使っているという点では自分と異なる部分があるような気がした。

◎オシャレな理由がわかる
→推測の範疇をでないが、著者の場合、視覚でみたもののバランスを取る能力値がかなり抜きん出ているのではないか。
だからどうしてもオシャレになっちゃう✌️⭐️
だがオシャレな人は「才能」があることも確かだが、オシャレな人に本気でなろうと突き詰めればなれるとは思うのでこれを読んだオシャレになりたい人も「才能か〜」と言って諦めないでほしいとは思う。

◎強靭な脳
→ 外的要因に対するキャパが広いのだろうか?ここまでの物を"みている"のに、接客業をしているのはすごい。
私は外的要因に弱いので(感覚過敏)私だったら脳みそ爆発するか崖から飛び降りてしまうところである。

◎コミュニケーション能力
→著者からは内心の怒りや鋭さも、優しさとして人に渡せるだけのコミュニケーション能力を感じる。その場しのぎの慰めではない本当の優しさに対峙するとき、それは厳しいと私は思う。
けれど、それを優しさとして丁寧に包装できるのが筆者の凄いところだと感じる。
だからつまり、優しさは有限というか。
甘えん坊さんを甘やかすための優しさではないのである。優しさは厳しさだから。

◎その他気になったこと
→「マリア」という大層な名前はつけてもらえなかったこと、19歳がターニングポイントなこと、私にもあったな、と思った。同一視はしていないが、クラスにひとり、というか学校にひとりだった人間がみる世界は少なからず同期するものがあると思った。

【内在世界の自己分析】〜それらは、全て叶う〜


私は精神領域でタブーを侵している。
ひっくり返してはいけないそれをひっくり返してみる。あえてそれを引っ掻く。モワッとしているそれを絞ったらメリハリがつく。わざと手放しておきざりにしてみる。

私の精神領域では全てが叶う。
幼稚園の頃の工作で陳腐な作品を作ってしまったことに絶望した。だが工作は精神領域ですればよい。タンスの中にあるあれとこれを繋ぎ合わせればいくらかは良いものができる。
或いは、縦横無尽にダンスを踊るように。
最高のタイミングでスパイスを入れるように。
旋律を奏でるように。
絵の具を塗りたくるように。
オシャレをするように。

その出力先がたまたま文字という形になる。
何もできない人間だから。

つまり、内在世界との対話が多い。
私がやっていることは例えば「宇宙」という概念を脳直で流入されて内在世界に宇宙を投影するようなことであることが多い。
それらは私が心臓と脳だけになった場合にも機能する。
ただ、これらをせっかく存在する五感を組み合わせて拡張する割合を増やす余地もみえてきたことはこの本を読んだことにおける大きな収穫だったと思う。

文章をみれば、その人の脳や経験をインストールできるというのは便利でもあるが不便な面もある。
例えばTwitterをみると急に渋谷のスクランブル交差点に立たされて全部の話を傾聴している状態になり錯乱するようなことが起こる。

したがって作中の彼女のように、自分の守っている領域のテンポが崩れることに対する何かしらの呪文を唱えることで、精神領域を守れるのではないか。また、脳内で起きていることを絵とかで出力し、精神領域の可視化を行うことも大事かもしれない。

また、まだ仮定の段階ではあるが、私の中にあるタンスは広く、すぐに出すことができるのではないか。だが机が狭い。狭いのに出しっぱなしにしている。その状態で多めの情報が入るとかなりパニック状態になる。
従って、物理的に片付けをする感覚を可視化した方が良いのではないか。
机を片付ける。タンスにしまう。
これらの動作を実世界で可視化することで、脳内の整理も容易にできるのではないだろうか。

最後に

私はそっちにいかなかった。
私の魂をしている限り、いくことが出来なかった。その代わり完全にあっちにいっちゃったというか。なんで何も選べないんだよ。つまらなくなる訓練たくさんしたのに才能が全然なかった。なんでなんだ。こっちみんな。
でもこの命に生まれて私はよかったと言いたい。
最後には。


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