2023年の夏、福島。
東日本大震災の被災地を訪ねた記憶は、2017年から18年にかけて連れて行ってもらった宮城県と岩手県。向かう途中にバリケードがあったり、何もなくなった平地に少しづつ街が、暮らしが再建されている様子があったり、復興に取り組む人の話を聞いたり。記憶は薄れているけれど、まだまだこれから。混沌としたなかに、大変なこともあるけれど頑張っていくぞ、という、あつい思いがあったように思う。
それから少し時間が経った今年。ひょんなことから南相馬市と楢葉町に友人が増え、7月の週末を利用して、福島県の浜通りを訪ねることにした。
上田駅から新幹線、上野駅で特急に乗り換えていわき駅を目指す。車に乗り換えたら、まずは「道の駅よつくら港」へ。
道中で、2011年4月にあった地震の話を聞く。津波のあと、電気や水道が復旧したタイミングで、追い討ちをかけるようにあった余震。再び寸断されるライフライン。「このあたりでは、人によってはそのときの方が辛かった、という話もありました」と、知人が言う。
車窓から見える景色は、もう所謂「ふつうのまち」の風貌をしていて、あまり暗さは感じない。それでも一定数あった新しい家、リフォームされた家は、その当時に直されたものかもしれない。
1階の売店と直売所には、地元の名産らしきものがずらり。2階のフードコートでご飯を食べたけれど、お弁当や惣菜、お菓子もドリンクも野菜も充実していて、ここで何かかって海や芝生で食べるのもありだったかもしれないと思うほど。チーズケーキとチョコケーキの商品名がちょっと面白かったのだけれど、忘れてしまったのが悔しい。どなたか、行った際には教えてもらえたら嬉しい。
トイレのある別棟には、震災直後の周囲の写真が展示されていた。道の駅も1階部分はほとんど流されてた様子。写真の色褪せ具合が時間の経過を感じさせた。
到着がお昼だったので、この時点で午後2時くらい。車は楢葉町の道の駅を経由して、伝承館へ向かう。
向かう国道6号線は、事故があった福島第一原子力発電所、そして第二原子力発電所の横を通る道だ。現場に近づくにつれてバリケードが増え、放置されて自然に帰りかけている畑や田んぼ、荒れた建物が目につくようになる。
なかでも心に残っているのは、ガラスが落ちて天井が剥がれ、商品が散乱したままになっている「しまむら」と、真新しい住宅を蔓が覆い隠そうとしている様子だ。
車窓から風景を撮る余裕がなかったので絵がないのだけれど、私の暮らしている町にあるのと何ら変わらないそれらが、きっと地震が起きたそのまま放置されている景色は、なかなか言葉を失うものがあった。
「ああ、ここはまだ、あの年の春なんだ」と、思った。きっとなかには、当時流行していた服がそのまま残されていて、消費税の表示もそのままで、家には暮らしの形跡が残っているのだろう。強制的に入れなくなった建物は、いつも目にしている空き家とはちがう独特の雰囲気があったように思う。まとまって集落ごと空いていたからかもしれない。
違和感というか、不気味さというか、「人がいない人工物」はそれだけで少し怖い気がしたし、青々と茂ってそれらを覆い隠そうとのびる植物はもっと怖い気がした。
風に触りたくて窓を開けようとしたら、同乗者から「ここはまだ数値が高いから、開けない方が良いかも」と、声をかけられてハッとする。真っ直ぐ道を走ってきたのに、そして走っていくのに、同じ陸続きに「触れてはいけない空気がある」というのは、何とも不思議な心地だった。
そうして着いた目的地はここ「東日本大震災・原子力災害伝承館」。
館内にカメラを持って行かなかったので、ここもあまり絵がない。詳しくはHPを見てもらうのが良いと思うし、何なら現地に足を運んでほしい。間違いなく今回の旅で行けてよかったスポットのひとつだと思う。まとまりもないけれど、このnoteには今そのままの状態を残しておきたくて、思い出せる限りつらつらと書いてみる。
真っ白で近未来的。遠く見える芝生と海のコントラストが綺麗。最初に目にした伝承館の印象だ。
館内には、世界と原発の歴史、福島の町の暮らし。震災当日から復興に向けた各機関や町民の動きと声。除染の話や心のケア。そしてまちの未来の話など。たくさんの展示があって、後半は駆け足気味だったけれど、それでも午後の数時間だけで全部を見るのは無理だった。
最初の方にあった「未来のエネルギー」としての原発。それまでの冬季間の出稼ぎが必要がなくなって、町には車や家を買えるほどのお金持ちが生まれて、とても歓迎されているような語り口がスタートだ。
課題はままあるけれど、きっと未来をつくる、良いもの。
そんな希望は、3.11を境に一気に町の不安要素になり、絶望や混乱に変わり、だんだん悪になっていく。誰かを責める材料になってしまうのならば、いっそかがくなんて進歩しなければいいのに。東電や行政機関の発信からはそんなことも感じた。曲がった道路標識と、映像資料。とにかく全てがリアルだった。
ちょうど先週、仕事で黒部ダムの記事を書いていて、明治以降の経済の発展やエネルギーのこと、戦争前後のあれこれ調べていたのも影響しているかもしれない。「それでも必要だ」と、決まるから進む国策。誰にとって、何が必要なのだろう。それが正しいか正しくないかは、数十年後、数百年後、数十万年後にわかるのかもしれない。そのとき最適解だったものが、時代が変われば簡単にひっくり返ってしまうこともあるだろう。
誰がなんと発しようと、どれだけ考え抜こうと、物事にはいい面も悪い面も必ず存在するのだ。ひとつの時代を一緒に生きる人間として、自分に関係のない、国の、社会の、地球の決断なんてきっとひとつもない気がしてくる。
「僕が理系で、研究者の道に進んでいたら、きっと原子力というエネルギーに夢を抱いたと思う」と、話していた友人。
展示のひとつ「チョコレートの詩」が、それこそどろりと甘ったるく、今も胸焼けみたいに残り続けている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?