「キャンディは銀の弾丸と飛ぶ」第1話

 不死身でもなければ、空が飛べるわけでもない。
 怪力でもなければ、超高速で走れるわけでもない。
 動物と喋れるわけでもなければ、体のサイズを変えられるわけでもないし、念力が使えるわけでもなければ、ビームや魔法の飛び道具が放てるわけでもない。
 運動能力や体力だって、並か、並より少々上くらいか。運は……まあ悪くはない。多分。
 それだけでも及第点って事で。
 武器となるのは、懐に忍ばせた刃物と己の格闘術、そして度胸。
 充分だよね!

 わたしは今日も夜の闇を駆け、必要とあらば悪を叩き、弱者の、そして街の守護者となる。

 わたしの運命を変えたあの人に思いを馳せながら。
 少しでもあの人に近付けますようにと願いながら。


 一〇月三一日、ハロウィン。
 県立おうぎ高校の美術部員たちは、放課後に各々が菓子やジュースを持ち寄り、部活動そっちのけで、ちょっとしたハロウィンパーティーを開催していた。もっとも、一五人いる部員の中で日頃から真面目に活動している人間はほとんどおらず、仮装をしているわけでもないので、大して変わらない光景だ。
 神崎千穂実かんざきちほみは、他の部員たちよりも少々遅れて美術室に到着した。

「やっほーチホミン、お疲れ!」

 千穂実の親友でクラスメートの緑川里沙みどりかわりさが、スナック菓子を頬張りながら笑顔で出迎えた。毛先をカールしたポニーテールが小さく揺れている。

「どんな感じ?」

「今さっき始まったばかりだよ」

「なら良かった」

 千穂実は、荷物置場と化している部屋の後方の古い机の上に手荷物を置きながら、他の部員たちとも挨拶を交わした。

「神崎先輩、お疲れ様でーっす!」

 一番離れた位置にいた後輩の山之内詩音やまのうちしおんが、里沙に負けじ劣らずの人懐っこい笑顔でやって来た。

「先輩、昨日も現れたみたいですね、仮面のヒーロー」

「うん」千穂実は微笑んだ。

「アメコミヒーロー好きな先輩としては、やっぱ会いたいですか?」

「そりゃ聞くまでもないでしょ~」里沙が口を挟んだ。「握手して、生徒手帳か何かにサイン貰って、それからスマホで写真も撮って、後は質問タイム。スリーサイズとか聞いちゃう?」

「ちょっと里沙、勝手に答えないでよ。まあ全部その通りだけど」

「いつか会えるといいですね──おっと」

 スマホに着信が入ると、詩音は小走りで美術室を去って行った。

「チホミンも早く食べなよ。皆色々持って来てくれてるけど、食べるスピード早いよ」

「ん、わたしも持って来たから用意するよ。待ってて」

「じゃ、飲み物用意しといてあげるっ」

 里沙も去ると、千穂実はコンビニエンスストア〈フレンドリーマート〉の、菓子の入ったビニール袋を手に取った。

 ──実はもう会ってるんだよね。

 絡まった茶髪の一部を手櫛で直しながら、千穂実は夏の日の衝撃的な事件、そして〝彼〟──世間で話題の仮面のヒーローとの運命的な出会いを思い返していた。

「チホミーン、コーラとグレープジュースと緑茶、どれがいいー?」

〝彼〟の素顔はわからなかったが、名前は聞けた。恐らくまだ誰も知らないだろう。

 ──そう、知っているのは千穂実わたしだけ。

 千穂実の頬が自然と緩んだ。

「チホミーン?」

「え? あー、えっと、ミックスジュース!」

「そんなのないよぉ~……え、まさか全部混ぜろって!?」


 K県浜波はまなみ市。
 千穂実の自宅や扇高校のある舞翔市の北隣に位置する、総人口三七〇万人、K県最大の都市にして県庁所在地だ。
 四月下旬のある日。
 同市内港北こうほく区の屋外型ショッピングモールで、ナイフを持った男が暴れ、七人の買い物客に重軽傷を負わせた。
 加害者は三〇代後半の独身の男で、逮捕後の供述によると、二年前に職場を解雇され世間に強い恨みを抱いており、数箇月前から頭の中で声が聞こえるようになったので、その声に従って事件を起こしたのだという。
 当初は、加害者の生い立ちや人柄、言動ばかりが取り上げられ、現代社会の闇だの何だのと、テレビ画面の向こうでコメンテーターや犯罪心理学の専門家が議論し合い、ネットでは加害者に対しての過激な言葉が飛び交った。
 しかし、注目の対象が加害者からある人物へと変わってゆくのに、そう時間は掛からなかった。

「もし〝彼〟がいなかったら、被害者は七人じゃ済まなかったかもしれないわ。死人だって出ていたでしょうよ」

 事件当日に現場に居合わせたという六〇代の女性は、某ワイドショーのインタビューに興奮気味にそう語った。
 また、ネットに目撃者による文章や写真、動画の投稿が相次ぎ、瞬く間に拡散された。

〝仮面を着けた黒ずくめの人が現れて、次の瞬間には犯人が倒れてた!!〟

〝あたしの友達が、犯人倒した人の後ろ姿だけ見たらしい〟

〝ヤバイヤバイ、マジでカッコイイんだけど!? でも仮面がちょい不気味www〟

〝スーパーヒーローじゃん!〟

〝仮面のヒーロー現る!!〟

 加害者は七人目を切り付けた後、蜘蛛の子を散らしたように逃げてゆく買い物客たちには目もくれず、その場をうろうろと歩き回り、時折わけのわからない事を呟いたり叫んでいたが、逃げ遅れた四、五歳程の男児が泣きじゃくっているのに気付くと、半笑いを浮かべながら近付いていった。
 距離にして僅か三〇メートル。男児から一番近いパン屋の中に逃げ込んでいた四〇代の女性は、ドアを半分開けると、早くこちらに逃げて来るよう大声で男児を呼んだ。パン屋の隣の雑貨屋の店長が店を飛び出し、男児を助けに行こうとしたが、加害者はそれに反応したのか急に走り出し、男児との距離をあっという間に縮め、ナイフを振り上げた。
 何人もの買い物客たちの悲鳴が響き渡った。その中には、はぐれた小さな一人息子を探していた若い母親の分もあった。雑貨屋の店長は手を伸ばしながら、やめろと絶叫した。パン屋にいた主婦は、堪らず顔を背けた──……。

 次の瞬間に起こった事は、目撃者たちだけでなく、加害者でさえ理解するのに少々時間が掛かった。
 黒い大きな何かが加害者のすぐ後ろに落ちて来ると、背中を蹴飛ばして地に這わせ、そのまま乗り掛かったのだ。加害者は、喚きながら手足をバタバタさせた。ナイフは手から離れ、届かない位置に落ちていた。
 黒い何かは人間の男性だった。栗色の短髪に、銀色の蔦のような模様が描かれた、目元以外を覆う白地のシンプルなフルフェイスマスク。服装は漆黒のボディスーツにマント、ブーツにグローブという、ショッピングモールには到底似つかわしくない、暗闇の中以外なら何処にいても目立つ姿だ。
 仮面の男性は乗り掛かったまま加害者の首元を圧迫し、完全に伸びたのを確認すると、呆気に取られている人々には目もくれず、その場でグラップルガンを発射し一番高い建物の屋根まで素早く移動して姿を消したのだった。
 幸いにも男児は無傷で、また重軽症を負った七人も、現在は順調に回復しているという報道だ。
 男児の両親や警察は、勇気あるヒーローに是非とも名乗り出てほしいと呼び掛けたが、〝彼〟が名乗り出る事はなかった。
 そして世間の関心と興奮が冷めやらぬうちに、〝彼〟はまたしても現れた。

 ショッピングモールでの事件から約二週間後、深夜二時過ぎの人気ひとけのない住宅街。
 コンビニでのアルバイトを終え帰宅途中だったフリーターの女性が、サングラスにマスク、ニット帽姿といういかにも怪しい男に声を掛けられた。
 女性が無視して走り去ろうとすると、突然男に腕を掴まれ、近くに停まっていた軽自動車に押し込まれそうになった。そこへ仮面のヒーローが現れ、男の首根っこを掴んで強引に引き離すと、腹に膝蹴りを喰らわせた。男が腹を押さえて前のめりによろめくと、今度は頭に踵落としで気絶させ、闇夜に紛れて消え去ったのだった。

 その後も〝彼〟の活躍は次々に目撃・拡散された。四月から七月までの三箇月間、確定しているだけでも三〇件以上に及び、その中には千穂実の自宅や扇高校がある、舞翔市内のものあった。
 浜波市と舞翔市は、良くも悪くも注目を浴びた。特に浜波市は、元々国内外問わず観光客の多い土地だったが、〝彼〟の熱狂的なファンが各地から所謂〝聖地巡礼〟に訪れ、一部のマナー違反者たちと地元住民たちとの間でトラブルが相次いだ。ネットでは熱狂的なファンと、彼らを批判する者たちが罵詈雑言を浴びせ合った。
 冷静な者たちの中では、ここ最近の浜波市内と舞翔市内の犯罪件数の急増を指摘し、〝彼〟を試すためにもっと大きな犯罪をしでかす人間が現れる事を懸念する声も上がっていた。


「仮面のヒーロー……最高なんだけど!」

 千穂実は毎日飽きずに、ネットで拾った画像や動画を何度も繰り返し再生していた。
 きっかけは忘れたが、千穂実は何年も前からずっとアメコミヒーローものが大好きだ。ヒーローたちが実在したらいいのに、と思った回数は数え切れない。そんな自分の身近に本物が現れたのだから、気にならないわけがなかった。
 
「でも、そんな簡単に会えるわけないよね……」

 しかし八月のある日、それは起こった。
 夏休みに入ってから、千穂実は浜波市郊外の水族館の敷地内にあるカフェで、週に二、三回のアルバイトをしていた。思い出作りや人生経験を積むため……ではなく、アメコミ邦訳本代を稼ぐためだ。
 この日もバイトがあったが、帰りが少々遅くなった。自宅の最寄り駅で降りると〈フレンドリーマート〉に寄ってスナック菓子を買い、再び歩き出して数分後、緩やかな坂道を少し上ると横断歩道に差し掛かった。
 歩行者信号は赤。車は一台も走っておらず、千穂実以外の通行人の気配もないが、青になるまでスマホでSNSに目を通しながら待つ事にした。ずっと遠くの方でクラクションが鳴っている。駅の方は賑やかなようだが、こちら側はこんなにも静かだ。

 ──いや、それにしても静か過ぎない?

 千穂実は指を動かしながら何気なく頭を上げた。

「──っ!」

 心臓が跳ね上がるかというくらい驚き、危うくスマホを落としそうになった。
 確かに誰もいなかったはずなのに、いつの間にやら隣に男が一人立っていて、こちらをじっと見ているではないか──充血気味の

 ──えーっと……。

 状況を理解するのに時間が掛かった。金色に染めた長髪をだらしなく伸ばし、襟元がくたびれたグレーの半袖Tシャツに、色落ちしてあちこちに小さな穴が空いたジーンズ姿の男なんて、浜波辺りを探せば何人かは見付かるだろう──四つ目でなければ、だが。

 ──何あれ特殊メイク? まさか生まれつき? 

「なあ」

 今まで無言だった四つ目男が口を開いた。怒られるのだと思い焦った千穂実だったが、ふと歩行者信号に目をやると青に変わったところだったので、チャンスとばかりに逃走しようとした。

「ちょっと聞きたいんだが」

「……何でしょう」

 引き留められ、反射的に足を止めてしまった。千穂実はお人好しな自分を呪いつつ平静を装い、不快な思いをさせないよう、男の額の辺りを見ながら答えた。
 四つ目男はジーンズのポケットから折り畳まれた紙を取り出し、細長い指で開いた。

「ここいらで、コイツを見た事はないか」

 それは写真だった。遠巻きに撮影したらしく被写体は小さいが、写っているのは今話題の仮面のヒーローではないか。

「……この人、最近よく現れて人々を助けてる、あのヒーロー……」

「ヒーロー。そう、ヒーローだ。ヴィランではない」

 悪人ヴィランだなんて、この男はアメコミが好きなのだろうか。千穂実はほんの少しだけ気を緩める事が出来た。それでも四つ目が不気味な事に何ら変わりはなかったが。

「で、キミはコイツを直に見た事があるか」

「いえ……」

「コイツが主にどの辺りで目撃されているか……なんて知ってるか」

「うーん……確か主に浜波市内だったかと。舞翔でも何回か目撃されてるみたいですけど……」

 四つ目の男の視線が、千穂実から写真へと移った。男は何か考え事をしているようだったが、しばらくすると、右半分の目だけを器用に千穂実に向けた。気持ち悪いからやめてくれと言うだけの勇気を、千穂実は持ち合わせていなかった。

「コイツはサイドキックを連れていてもおかしくないんだが……そういう話を聞いた事はないか」

「サイドキックって、ヒーローの相棒ですよね。聞いた事はないです」

 ヒーロー、ヴィラン、サイドキック。まさにアメコミの世界だ。しかしこの四つ目男が結局何を言いたいのか、千穂実にはさっぱりわからない。

「あの……その仮面のヒーローって、本来ならサイドキックがいるんですか」今度は千穂実から恐る恐る聞いてみた。

 写真に向けられていた男の左半分の目がギョロリと千穂実に向けられ、そして四つ同時にスッと細められた。

「ああ、いるよ。生意気な女のガキが」

 四つ目男の声は穏やかなままだったが、その言葉や細められた四つの目からは憎悪が滲み出ているように感じられた。

 ──怒らせちゃった?

「コイツの実力は認めている」四つ目が指先で写真を叩く。「コイツはパッと見、そんな強そうじゃないだろ。何処の舞踏会帰りだよって格好だしな」

 四つ目男はそう言いながら鼻で笑ったが、千穂実は愛想笑いすら出来なかった。

「しかしコイツは、実際のところなかなか恐ろしいヤツだ。オレは何度もコイツにブチのめされたし、一度なんてマジで殺られるかと思った。ある意味では尊敬するよ、ああ。だがな……ヤツのあのサイドキックのクソガキは別だ!! あんのメスガキ!!」

 四つ目男は怒りに任せて写真を握り潰した。

「あの細い首をへし折ってやりてえ! だいたいよお、女の分際で──おっと失礼」

 四つ目男は写真を丁寧に伸ばしてゆき、ある程度そうしたところで最初の状態と同じように折り畳み、ジーンズのポケットにしまった。
 千穂実は今更ながら、この四つ目男との長話は危険だと悟った。

「あー、その、力になれなくてごめんなさい。あの、わたしもう帰らないと」

「あのさ、何でオレが話し掛けたかわかる?」

「え?」

 四つ目男は突然、千穂実の胸倉を掴んだ。

「キャッ!?」

「何となく似てるんだよ、オマエとあのメスガキ! キャンディガールとかいう生意気な! つうか最初、本人かと思ったワケよ。ちげぇようだから残念だ。でもきっとオマエとあのガキは異世界の同一存在なんだろうよ!」

 千穂実が手を引き剥がそうとすると、四つ目男は今度は千穂実の首を両手で締め上げた。

「ぐっ!?」

「憂さ晴らしにオメエを殺すわ!」

 ──はあ!?

 千穂実の体が少しずつ宙に浮いてゆく。爪を立て、足をバタつかせて必死に抵抗するが、四つ目男は動じない。

「う……ぐっ……」

 四つ目男はニヤニヤ笑った。「ヒヒッ……死ね死ね!」

「やめろ」

 何処からともなく聞こえてきた第三者の声に、四つ目男は千穂実を解放すると慌てて周囲を見回した。

「……何処だ、何処にいやがる」四つ目男の声は震えていた。

 千穂実は尻餅をついたまま激しくむせ、吐きそうになった。涙目で四つ目男を見上げると、右手にナイフを持って何やら喚いていた。千穂実は、四月にショッピングモールで起こった通り魔事件を思い出し、身震いした。
 四つ目男は千穂実と目が合うと──勿論四つ全てだ──腕を引っ張って無理矢理立ち上がらせようとした。千穂実は抵抗したがナイフの刃先を向けられ立つように脅され、仕方なく従うと男の方に引き寄せられた。

「姿を見せろ! でないとこのガキブッ殺すぞ!?」

 ナイフの刃先が千穂実の首筋にピッタリと押し付けられる。

 ──嘘でしょ!?

 千穂実は大声で泣き出してしまいたかった。何でわたしがこんな目に合わなきゃならないんだ。バイトはいつもより客が多くて大変だった。その帰りに気色悪い四つ目男に話し掛けられ、首を絞められ、解放されたかと思えば今度はナイフで首を切られそうになっている。

 ──わたし何か悪い事したっけ!?

「いるんだろ……オレをずっと追ってたんだろ……聞いてんのか? 姿を見せろって言ってんだ! でも近付くんじゃねえぞ!」

 沈黙と静寂。元々誰もいやしないのではないかとも思えたが、千穂実はすぐに否定した。首を絞められパニックになってはいたが、確かにあの時、第三者の声──低い男のものだ──を耳にした。

「そうかよ……じゃあこのメスガキがどうなってもいいってワケだなあ!?」

 ──じょ、冗談じゃない!

「助けて!!」千穂実は出せる限りの大声で叫んだ。

 その時だった。
 二人から十数メートル離れた横断歩道の先の、鉄筋コンクリート建築の三階建てアパートの物陰から、ゆっくりと姿を現す者がいた。目元以外を覆うシンプルなフルフェイスマスク、漆黒のボディスーツにマント、ブーツにグローブを身に纏っている。

 ──あ……。

 千穂実の心に、少しだけ希望の光が灯った。

「や、やっと出て来やがったな……おせぇじゃねえか。オレにビビってたんだろ」

 明らかにビビッているのは四つ目男の方だ。千穂実は、人質に取られてさえいなければ指摘してやりたいくらいだった。ついでに、この男が頭のてっぺんからつま先まで、どれだけ気色悪いかという事実も。まだ安心し切れない状況だというのにそう考えられるだけの余裕があるのは、あの仮面のヒーローが現れたからだ。

「そのを放せ」仮面のヒーローは淡々と言った。

「オ、オメエはオレを殺す気だろ。オレは元の世界だけじゃ飽き足らず、コッチに来てまでこうやって悪さしてるもんな……」

 ──元の世界?

 千穂実はふと、胸倉を掴まれていた時に四つ目男が発した言葉を思い出した──〝オマエとあのガキは異世界の同一存在なんだろうよ!〟

「その娘を放せ」

「殺す気だろ? ええ!?」四つ目男の声が上擦った。

「聞こえなかったのか。その娘を放せ」

「クソッ……クソがぁ! 先にオメエを探し出してブッ殺してやるつもりだったのに、それが……ああ畜生め!!」

「いい加減にしろ、フォーアイドゴブリン」

 フォーアイドゴブリン。それがこの四つ目男の名前らしい。

「畜生……チキショウ……」

 フォーアイドゴブリンは小刻みに震え出した。はずみでナイフが刺さってしまいそうで、千穂実は気が気でなかった。

「これまでは特殊収容所送りで済ませてやっていたが、脱獄未遂も何度かあったな。前回、窃盗と傷害で収容された後は大人しくしていたようだが、出所した途端にこれか」

 仮面のヒーローの手元で、一瞬何かが光った事に千穂実は気付いた。

「そっ、そんなのオレだけじゃねえだろ? オレなんかより、ア、の方がよっぽども悪人だろ! オレはまだこっち側では誰も──」

「二日前、浜波市塔山とうやま区の個人商店に空き巣が入った。空き巣は現場から逃走する際、目撃者を切り付け怪我を負わせた──貴様の仕業だという事はわかっている」

「だ、だからよお──」

「私の考えが甘かった」

 仮面のヒーローの右手が動いた。いや、正確には右手というよりも右手首だけが、何かを軽く払うように動いたようだった。そしてその直後、フォーアイドゴブリンは真後ろに倒れ込んだ。

「うわあっ!?」

 千穂実は慌てて横に飛び退いた。先程までナイフの刃が当てられていた部分がピリピリと痛む。指先で触れてみると、うっすらとではあるが血が付いていた。
 この程度で済んで良かったと千穂実は心底思った。振り返り、声もなく倒れてからそのままのフォーアイドゴブリンに恐る恐る近付き、顔を覗き込んだ。フォーアイドゴブリンの四つ目は、それぞれが違う方向に見開かれている。

「キモッ……」

 千穂実は四つ目を見ないように視線を外しかけ、そこで初めて、フォーアイドゴブリンの額のど真ん中に刃物が刺さっている事に気付き、大きな悲鳴を上げた。

「し、ししし死んで──」

 後ろから肩を一度叩かれ、二度目の悲鳴。恐る恐る振り向くと仮面のアップ。三度目の悲鳴。

「怪我はないか」

「あ、ああ、は、はい……」

 仮面のヒーローは千穂実の首筋を見やり、

「この程度なら大丈夫だ」

 千穂実はその場にへたり込んだ。貧血を起こしかけたのか、軽度ではあるが眩暈がして気分が悪い。

「しっかりしろ」

 仮面のヒーローが漆黒の手を伸ばす。千穂実はためらったが、やがてその手を取り、ゆっくり立ち上がった。
 互いに向き合う形になると、千穂実は何の気なしに仮面を見つめた。銀色の蔦のような模様が描かれたシンプルなデザインだ。
 仮面のヒーローが顔を背けた事で、千穂実は我に返った。

「あ、えと──」

「一人で帰れるな?」

「え、あ、はい……」

「急かすようで悪いが、すぐにこの場を去ってほしい。こちらを振り返らずに。この男の特殊能力はそろそろ切れるだろう。そうなる前に処理したい」

 ──特殊能力?

「あ、あの……特殊能力って何ですか」

 遮られるより先に言ってしまえと思い、千穂実は少々早口で続けた。

「他にも気になる事が色々とあるんです。その四つ目男、〝元の世界〟だの〝異世界〟だのって。あ、それと、わたしの事、あなたのサイドキックの〝キャンディガール〟に何となく似てるとかって因縁付けてきて、それで首を……」

 キャンディガールと口にした時、一瞬──ほんの一瞬だが、仮面のヒーローの目に困惑の色が浮かんだように見えた。

「あの──」

「君には関係のない事だ」

「か、関係ない?」

「何度も言わせないでくれ。早く去るんだ」

 有無を言わせぬ口調に千穂実は怯んだ。

「わ、わかりました……」千穂実は踵を返そうとしたが、ふと、ある事を思い出した。「あの、最後にもう一つだけ。あなたのお名前は?」

「シルバーブレット」

 ややあってから、仮面のヒーローはそう答えた。その名前は千穂実に甘く響いた。

「あの……有難うございました」

 千穂実は頭を下げ、それから横断歩道を一気に渡った。渡り終えた後もしばらく走り続けていたが、二〇メートル程進んだところで、言われていた事を忘れ恐る恐る振り返った。
 シルバーブレットとフォーアイドゴブリンの死体は消えていた。

 帰宅後、千穂実は両親に話し掛けられてもほとんど上の空だったため、バイト先で何かトラブルがあったのかと夕食の席で心配された。

「お客さんが多くて疲れただけ。今日は早く寝るから」

 夕食後はすぐに風呂を済ませて部屋に篭り、帰宅途中で起こった出来事をずっと思い返していた。そしてそれは普段より三〇分以上早く入った布団の中でも続いた。
 あの仮面のヒーローに助けられた。会話までした。名前も教わった。

銀の弾丸シルバーブレット……」

 しかし彼は人を──あの四つ目男が本当に人間なのかは怪しいが──殺した。彼が殺人をするなんて話は聞いた事がなかった。何かの間違いだと信じたかったが、千穂実が見た限りでは、四つ目男は死んでいた。おまけにシルバーブレットは、殺しに対してあまり抵抗はないようだった。世間の人々が知ったらもっと大騒ぎになるだろう。
 四つ目男、フォーアイドゴブリン。とにかく最低な奴だった。死んだからといって一切同情するつもりはない。しかしこいつの話は興味深かった。こいつは実は違う世界の住人で、わさわざこちらの世界にやって来てまで悪事を働いていたため、シルバーブレットに目を付けられた……。

 ──ん、ちょっと違う。

 二人は以前から何度も戦い、その度にフォーアイドゴブリンは特殊収容所送りにされていたらしい。という事は、仮面のヒーローも違う世界の住人だ。そしてその世界には、ヒーローやヴィランが当たり前のように存在している……?
 フォーアイドゴブリンがアメコミ好きで、妄想と現実の区別が付いていないだけという可能性もある。しかし妄想ならば、シルバーブレットもただのおかしい人という事になってしまう。
 フォーアイドゴブリンの四つ目、あれは作り物ではなさそうだった。そしてシルバーブレットが言っていたフォーアイドゴブリンの特殊能力というのは、ひょっとすると、人や車などを遠ざけてしまうものではないだろうか。

 ──わからない事だらけ。

 千穂実は小さく溜め息を吐いたが、直後には笑みを浮かべていた。

 ──でも何だか最高!

 ショックや様々な疑問よりも、興奮の方が勝っていた。そして千穂実には、早くもある二つの願望が芽生え始めていた。

 ──もう一度会いたい……シルバーブレットに。

 仰向けから横向きになると、枕カバーをギュッと握る。

 ──わたしも戦いたい……シルバーブレットと一緒に!

 神崎千穂実は決意した──シルバーブレットの相棒サイドキックになる、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?