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「横浜山手秋ものがたり」最終章 前編

 15才のマリカは、伯母の住む山手の古い西洋館に掛けられた一枚の異国の少女の絵に強く惹かれる。その後、マリカはその少女が約百年前に実在していた事を知って驚き、親友咲とその兄の広介とともに調査を始める。そんな折、広介はその屋敷には良くない噂があり、山手に古くから住む住人たちの間では”いわく付きの家”と密かに囁かれている事を知り不安になるのだが・・・?塔のある西洋館の謎がいよいよ明らかになって行く。

 

 1.咲の提案

 広介が一ノ瀬写真館の店主から連絡を受けたその夜、思いがけない

事が起った。先輩若宮から聞かされた西洋館にまつわる不吉な話を

あろう事か、妹の咲に知られてしまったのだった。

「・・・お兄ちゃん今なんて言った?私には”いわく付きの家”って

聞こえたけど、それどういう意味よ?」

 マリカと一緒に西洋館に出掛ける約束をしたのだと咲から聞いた広介は

うっかりそこがいわく付きの家であることを口走ってしまったのだ。

  咲はその言葉を見逃さなかった。

怖い顔で説明を迫られた広介は、これはもう誤魔化しきれないであろう

と思い、先日聞いた話を打ち明けることにした。


「・・・とまあ山手に古くから住む一族の息子である先輩が、その家に

密かに伝わっている噂話をこっそりと、俺に教えてくれたというわけだ」

 話し終えた広介は、咲が一体どんな反応を見せるのか気になって、

恐る恐るその表情を見た。

 咲はしばらくの間、眉間にシワを寄せ考え込む様子をしていたが、

間もなく顔を上げるとキッパリとこう言った。

 「お兄ちゃん、私そんな噂話は信じないからね!」

 その言葉は予想外であったので、広介は驚いた。すると咲は続けた。

「だってそうでしょ?その人の言う噂話には、何の根拠もないわけじゃ

ない?そこに住んだ人達が短期間に引っ越したのはそれぞれの事情があった

からだと思うし、子供が死んだのだって単なる不運な事故だったんじゃ

ないの?」

「うーん、まあ確かにそう言われればそうかもしれないよ。その話を裏付

ける証拠は何もないわけだから。だけど俺にはなんか引っかかるんだよ。

上手く説明出来ないけれど、単なる噂話としてだけでは片付けられない

何かが、そこにはあるような気がして・・・」

 広介は咲の意見をすぐに受け入れる事は出来なかった。

すると咲はこんな提案をした。


 「ねえお兄ちゃん、だったらこうしない?今度の休みに私と一緒に

その家を見に行って見ようよ。実際にそこを見て、そこに住んでるマリカ

の伯母さんに話を聞いてみたら、その話が本当かどうかがわかると思う

から・・・」

 咲のその提案は名案に思えた。

噂話についてこれ以上考え続けるよりも、その家に実際に出向いて見た

方がいいに決まっている。その上、あの少女の絵と塔の両方をこの目で

確かめることも出来るではないか・・・?

 こうして広介は咲の提案を受け入れる事に決めたのだった。


 2.塔のある西洋館

 その日は風の冷たい日であった。

マリカの案内で山手の丘へと続く急な坂道を上りながら、咲は

呟いた。

「私、実は夕べは興奮してよく眠れなかったんだ」

「へえー、そうなの?咲ちゃんが眠れないなんて、珍しいじゃない?」

「へへ、だよねー?なんかさあ、ステキな伯母さまに逢えるとか、あの

少女の絵が見られる事とか色々と考えてたら、つい興奮しちゃって・・・」

 すると広介もそこで口を挟んだ。

「マリカちゃん、実は僕もなんだ」

「え?広介さんも?」

「うん。だけど僕の場合はさ、咲とはちょっと違って歴史的好奇心が

うずいて・・と言ったらいいのかな?とにかくそこにある珍しい塔の事が

気になって、なかなか寝付かれなかったんだ」

 広介の眠れない理由はもちろん他にもあった。しかし、マリカは屋敷に

伝わる噂話のことは一切知らないので、それについては黙っておいた。

「なるほどー。広介さんは横浜の歴史研究会のメンバーでもあったんです

ものねー?あの塔のことが気になるのはよくわかります。何だかとっても

謎めいているから・・・」

 マリカが広介の話に同意したとき、突然手元の携帯が鳴り出した。

しばらく応対したのち、彼女は言った。

「今伯母から連絡があって、ちょっと準備に手間取っているようなんです。

それで広介さん達を先に庭のほうにご案内するようにって言われたんです

が、それでいいですか?」

 もちろんそれは広介たちにとってかえって好都合でもあったので、二人は

すぐに同意した。そこでマリカは館に着くと二人を真っ直ぐ庭に連れて

行き、自分は手伝いをするため母屋に入って行った。


 その塔は、木立ちの中にひっそりと隠れるように建っていた。

「あれが・・そうか?まるで廃墟のようだな?」

「本当。なんだかあそこだけ別世界っていう感じがするね?」

 広介と咲は塔の姿を見るなりその独特な雰囲気に、しばし見入って

しまった。近づいてよく見ると、崩れかけた石造りのその塔はびっしりと

ツタで覆われていた。

「うわっ、これじゃどこが入り口だかわかんないじゃない!まるで

童話のいばら姫みたい・・・」

 咲の言う通り、ツタや棘のある植物で囲まれたその塔は、来る者を

拒むような雰囲気があった。そこで二人は内部を見るのは諦めて、

少し下がって塔の全体を観察してみた。


「ふうん、なかなか堂々として立派なもんだ。長い年月を耐え抜いたのも

わかる気がするな」

「うん。確かに。何しろあの関東大震災や戦争さえも乗り越えたほど

だものねえ」

「しっかし惜しいよなあ。頂上部分が失われてしまっているのは。

当時は一体どの位の高さがあったんだろう?」

「うーん、今残っている部分だけでもざっと4,5階建てのビル分位は

ありそうだから、頂上までは相当あったんじゃない?」

 咲はそう言って手をかざし、塔の上を見上げた。そして当時の完全な

塔の姿を想像してみた。すぐにイメージ出来たのは、いばら姫や塔の上の

ラプンツエルに登場するような、とんがり屋根をしたメルヘンチックな

姿だった。中には長いらせん階段があり、頂上に行くためにはそれを

一段一段登って行かなければならないのだ・・・

 そんな風に思い描いていると、いつの間にかどこかから、数羽の

小鳥たちがやって来た。ところが彼らは塔に近づくと、いきなりその中に

姿を消してしまった。

 

「あれ?お兄ちゃん見てあそこ!小鳥たちが塔の中に消えちゃったよ」

 驚いて声を上げると、傍らにいた広介が笑いながら答えた。

「ああ、きっとあそこには窓があるんだよ。ほら、今度は反対側から

出てきただろ?」

 広介の言う通り、塔には幾つかの窓があるらしかった。

既にそこにガラスは無いため、小鳥たちはその間から出たり入ったり

して遊んでいるのだった。その様子はとても愛らしく、咲はしばらくの間

じっと見入ってしまった。そして当時ここに登った人達は一体どんな人達で

あったのだろうかと想像していた。

 広介はその間に持参したカメラを取り出して、撮影を始めた。


 ファインダーから見える塔の様子は、肉眼とはまた違った印象に見えた。

一見、中世の要塞にも見えるその姿は、堅牢でありながらもどこか優美さも

感じられた。そこからは造り手のセンスの良さやロマンのようなものが伝わ

って来るのだった。

(・・それにしてもこんな物よく造ったよな?彼は一体何のために、

この塔を建てたんだろうか・・・?)

 広介はそんな事を考えながら、夢中でシャッターを切り続けた。


 「・・なあんだ二人とも、やっぱりここにいたのかあ?」

その時二人の背後から、突然マリカの声が聞こえた。

「私てっきり花壇のほうにいると思ってたから探しちゃった!」

「あ、ゴメーン、マリカ。最初はそこにいたんだけどさ、やっぱり塔の

ことが気になって見に来ちゃったんだ。ね?兄貴」

「そうなんだよ、マリカちゃん。奥のほうに塔が見えたから、ついこっちに

足が向いちゃって・・・あ、そう言えば写真も無断で撮らせてもらっちゃっ

てたんだった、ゴメン!」

 慌てて謝ってくる二人に、マリカは笑って言った。

「そんな、いいのよ二人とも。塔が見たいのは、よくわかってたから。

それより薫おばちゃんが呼んでるの。お茶の用意が出来たから、早く

母屋のほうにいらっしゃいって」

「うわあホント?超うれしい!!」

 マリカから薫のお茶会の素晴らしさを聞いていた咲は、たちまち破顔

した。そして塔のことはすぐに忘れマリカの手を取って、母屋に向かって

駆け出したのであった。


 3.薫の話

 「皆さま、本日はようこそいらっしゃいました。お待たせしちゃって

ごめんなさい。さあどうぞお入りになって」

 玄関を入ると、そこにはローズピンクのドレスに身を包んだ薫が

笑顔で迎えてくれた。深く開いた胸元には、キラキラと紫色に輝くペンダン

トが揺れていた。咲と広介はその優美な姿に思わず息を呑んだ。

「は、初めまして。わたし、田所咲と申します。今日はお招き頂いて

ありがとうございます!」

 上ずった声で咲が挨拶すると、続いて広介も頭を下げた。

「初めまして。咲の兄の田所広介と申します。今日は妹と一緒に押しか

けてしまってすみません。どうぞよろしくお願い申し上げます。」

 二人の緊張した様子に、薫は優しい微笑みで応えた。

「まあ、お二人とも、そんなに緊張なさらないで。私は杉澤薫と申します。

今日はお会いするのをとても楽しみにしていたんですのよ。

さあどうぞ、こちらへ」」

 

 居間に通された二人はゆったりとした皮のソファーに腰掛けた。

薫とマリカはその向かい側の背もたれのある椅子に並んで座った。

 低い木製のテーブルには、既に四人分のお茶のセットが用意されていた。

そこにはヨーロッパの美しい風景画が描かれており、恐らくアンティーク

の物と思われた。テーブルの中央の銀のトレイには、ひとくちサイズの

サンドイッチとフルーツがおしゃれに盛り付けられていた。

 薫は脇に置かれたワゴンからテイーポットを取ると、早速それぞれの

カップに香り高い紅茶を注いでくれた。


 「さあどうぞ。大したものはありませんけれど、遠慮なく召し上がっ

て下さいね?」

 「・・わあ、いい香り!おばちゃん、今日のお茶は何のお茶?」

 マリカが紅茶をひとくち呑むなり質問した。

「これはね、フランスのお紅茶なの。マリアージュフレールという

ブランドの、マルコポーロという名前のお茶よ」

「マルコ・・ポーロですか?そうすると、あの有名な”東方見聞録”を

書いたイタリアの商人ですね?なるほどちょっとスパイスが効いていて、

エキゾチックな香りがしますね?」

 歴史好きな広介が、納得したように感想を述べた。


「まあ、さすがはよくご存知ですのね?広介さんは歴史に大変お詳しい

とか、マリカから聞いておりました。そうそう、それで思い出しましたわ!

先日はマリカを色々な所にご案内して下さったとか?ご親切にありがとう

ございました」

 深々と頭を下げて礼を言う薫に、広介は慌てて言った。

「いえいえ、とんでもない事です。あの日は僕もちょうど資料館に行く予定

にしていたんです。それで企画展の内容がもしかしたらマリカさんの興味に

合うかもしれないと思いついて、たまたまお誘いしただけだけですから」

「そうでしたの?それにしてもそのことが、家にある絵の謎を解くきっかけ

になるなんて、夢にも思いませんでしたわ。・・・ほら、あそこの暖炉の

上に掛けてある絵が、その絵ですわ」

 

 薫はそこで振り向いて、後ろに飾ってある一枚の大きな絵を指さした。

広介と咲は持っていたテイーカップを置くと、その絵に注目した。

その日は寒かったので暖炉には火が入り、赤々とした炎が少女の姿を

妖しく浮かび上がらせていた。


「これが、あの少女か?まるで生き写しだな」

「ほんと・・・そっくり!」

広介と咲は口々に感嘆の声を上げた。するとマリカが絵のそばに立って

説明した。

「でしょう?だから私資料館で最初にあの写真を目にした時、本当に

驚いたのよ。それにほら、ここに描かれている背景もよく見て。さっき

外で見た塔に似ていると思わない?」

 そこで今度は広介と咲も席を立って、絵の正面に向かった。

「・・なるほどな?確かにこの塔の描写は確かにさっき見た塔によく

似ているよ」

「そうだね?この外壁の色とか石の積み上げ方なんかは同じみたい」

「・・それにしても不思議な魅力がある絵ですね?なんと言うか、

とても引きつけられる感じがします」

 広介のその言葉に、薫も深く頷いて言った。

「ええ、実は私もこの絵をひと目見るなり魅せられてしまったんですの。

この絵のほかにも小さな作品が幾つか廊下に飾ってありますが、この一枚

だけは何か画家さんの魂というか、強い思い入れのようなものが伝わって

来る気がして、特に大切にこの部屋に飾らせて頂いているんです・・・」


 薫の口からそこで画家の話が出たので、広介は思いきって彼について

話してみる事にした。

「あのー、今お話に出たその画家さんの事なのですが・・・実は

僕の先輩の母親が、以前その方に絵を習っていたらしいんです」

 その思いがけない言葉に、薫は目を見張った。

「まあ、それは本当ですの?」

「はい。その画家の方が所属していた絵画教室の生徒だったそうです。

その先生は生徒さん達にとても人気があったそうで、先輩のお母さんは

一度お仲間達と一緒にこちらのアトリエにもいらしたことがあるそうなん

ですよ」

「まあ、それは驚いたこと!不思議ねえ、世の中狭いとはこういうことを

言うんだわ」

 薫はそう言って息を吐き、続いてこう言った。

「でもそうすると、そのお母様は残念がられたでしょうね?その先生が

突然亡くなられてしまって・・・」

 

 その言葉は広介にとって気になっていた話題をさらに口に出来る

チャンスとなった。

「はい、仰る通りです。先輩によると、お母様はとてもショックを受けられ

ていたそうです。何せその先生はそれまで風邪ひとつ引いた事がない程の

健康体だったので、とても信じられないと言って・・・」

「そうでしたの?それなら尚更でしょうね?私もこの家を見に来た時に

その事を知って、とても驚きましたもの・・・」

 薫のその言葉に、今度はマリカが反応した。彼女は顔を上げると

いきなりこう尋ねた。

「だけどおばちゃん、その話ってちょっと不気味だよね?ここで人が

亡くなったなんて・・聞いた時怖くなかったの?」


 その瞬間、広介と咲はハッとして顔を見合わせた。話が突然この家の

秘密に触れていたからであった。

 ところが意外にも彼女はあっさりとこう答えた。

「そうねえ、マリカちゃん。あなたの言う通り、その話を聞いた時は

ちょっとドキッとしたわ。確かにあまり気持ちの良いお話では

なかったから・・・」

「やっぱり。それじゃあおばちゃんは、この家に住むことを迷ったりも

したの?」

「うーん、そうねえ。迷ったということはなかったけれど、

この家に住むことを真剣に考えるきっかけにはなったわね?

そもそも私はずっと前から、いつか山手に住んでみたいと考えていたの。

それも本格的な西洋館に・・・

夫が急に亡くなって、その想いは増すばかりだったの。そんな時にここを

紹介して下さる方が現れたから、それはもう喜んですぐに駆け付けたのよ。

でも実際に住むとなると西洋館は古いから、メンテナンスの面とか色々と

簡単には行かない問題があることがわかったの。それに加えてさっきのよう

なお話でしょう?耳に良くない噂話が他にもあることも知ったわ。

それでさすがの私も、ここに住むためには相当な覚悟が必要であると悟った

わけ・・・」

 薫の言葉に、今度は咲が思いきった質問を投げかけた。

「あのー、それでは伯母さまがこの家に住むことを決心された理由は、

一体何だったんでしょうか?」


 薫はその問いにはすぐには答えなかった。しかし少しの間考えてから

ニッコリ笑ってこう答えたのだった。

「・・そうねえ、その答えは簡単よ。ひと言で言うと、私がこの場所を

すごく気に入ってしまったからということに尽きるわね!

 この山手の丘で人知れず静かに時を重ねてきたこの場所は特別な場所

だと思うの。そこには長い歴史があって、そこに暮らした人々の様々な物語

が眠っている・・・結局私はそうしたものの全てに魅せられてしまったの

よ。この屋敷も庭も、あの朽ちかけた塔でさえもね?

 その上でこう思ったの。そうした滅多にない特別な物の中で暮らして

みるのも悪くないんじゃないかって。これからの後半生をそうした物の

全てを大切にし、慈しみながら生きて行きたい・・・そう考えて、

私は決心したのよ」


 薫が静かに語ったその言葉には真実味があり、そこには愛が溢れて

いるように感じられた。

(・・ああ、この人なら大丈夫だ。きっとこの家に住み続ける事が出来る

だろう・・・)その時広介は心の中で思っていた。そしてまた彼女こそ、

この館の主に相応しいのかもしれない・・・とも考えたのであった。

 

 その後、薫は手作りのアップルパイと熱いコーヒーをご馳走してくれた。

そしてコーヒーを飲みながら、薫はまた亡き夫との思い出話をポツポツと

語ったのだった。また胸にかけているペンダントが、実は彼からの大切な

贈り物なのだと打ち明けた。航海でアフリカに立ち寄った時に見つけたと

いうそれは大きな紫水晶のペンダントで、力強い浄化と魔除けのパワーが

秘められているのだと説明した。これをつけていると安心し、彼に

守られているような気がするのだとも語った・・・マリカと咲はその話に

うっとりと聞き入ってペンダントの不思議な輝きに魅せられたのだった。

 その後しばらく談笑した後、三人は次回は一ノ瀬写真館で会う事を

約束して、別れを告げた。


 「・・ねえお兄ちゃん、薫さんってとってもステキな人だったね?」

マリカと別れて二人きりになってから、咲が呟いた。

「そうだな?美しくてとても魅力的な人だったよ。それにただ綺麗なだけ

ではなくて芯もしっかりしているし・・・」

「そうだよね?旦那さんの死を乗り越えて、一人でも強く生きて行こうって

いう姿勢がカッコ良かった!あの人ならどんな困難も乗り越えて行けそう」

「ああ、俺もさっきそう思ったよ。会うまでは噂話のことが気になって

心配だったけど、彼女に実際に会って話をきいてみたら、そんな心配は

飛んで行ってしまったよ」

 広介の言葉に、咲が得意げに返した。

「ほーらお兄ちゃん、だから私の言った通りだったでしょ?噂話は信じ

ない方がいいって!」

「ハハッまあな?あの話の真偽についてはまだよくわからないけれど

とにかくこれで俺もひと安心出来た気がするよ」

「良かったー!これであとは写真館に行くだけだね?」

「そうだな。店主の人も色々と調べてみてくれたらしいから、話を聞く

のが楽しみだよ」

 抱えていた心配事がひとまず解消し、二人は明るい気持ちで家路に

着いたのであった。


 4.震災の記録

 その頃一ノ瀬写真館では、店主が娘の彩とともにラチェット一家の

古い写真を改めてチェックしている所だった。それらを年代順に並べて

似たような写真が何枚かある場合には、最も鮮明に写った物を選び出した。

また当時の店主であった高祖父の記録を読み直し、その中から一家に

ついての記述をピックアップして、新たな説明文として書き添える事に

決めた。彩はその作業を進める前に、当時の横浜の時代背景も知っておき

たいと考えて、写真館の二階にある資料室へと向かった。

 

 そこには創業時の明治期から大正、昭和にかけての横浜に関する多くの

文献が集められていた。今回彩が特に知りたかったのは、関東大震災に

ついてであった。というのもその時代に暮らしていたラチェット一家の

記録写真が、震災を境に発見することが出来なかったからであった。

彩は一家のその後の消息が気になって仕方がなかった。とりわけ一人娘

である、ハンナの安否が・・・

 そこで彩はまず当時の震災の様子を記録した文献を探し出して、中から

記録写真が満載した一冊の本を選び出して見た。

  ”1923(大正12年)年9月1日、午前11時58分。

神奈川県を震源とする、マグニチュード7、9の大地震が発生した”

 そうした一文で始まっているその本の1ページ目には、”地震発生直後の

横浜市常磐町付近”と題されたモノクロ写真が掲載されていた。


「うっ、これはヒドいわ・・・」

 彩はその写真をひと目見るなり目を覆いたくなった。

そこにはなぎ倒された電柱と無残に崩れ落ちた建物の数々が写っていた。

その様子はまるで、巨人の足で踏み潰されたかのようであった。

 痛ましい光景を写し出した写真はその後も続いた。すっかり焼け落ちて

しまった横浜の駅舎や郵便局、崩壊した港の大桟橋。またその付近には

瓦礫の山と化してしまったグランドホテルや外国商館の数々・・・

 写真以外にも、絵画や彩色絵はがきが、当時の無残な状況を痛いほど

伝えていた。例えば民家から真っ赤に燃え上がる炎、その様子を絶望的な

表情で見つめる人々や不安になって泣き叫ぶ子供等など・・・

 最後のページには、市内の全景を写したパノラマ写真が掲載されていた。

その光景はまるで戦後の焼け野原のようであり、大地震によって美しかった

街の景観が一瞬にして崩壊してしまった事を物語っていた。

 また被害の状況は、こう記されていた。

 

 ”地震発生直後から、市内各所297箇所から出火。

折からの風にあおられて次々と延焼し、7万棟近くの建物が焼失した。

風の強さは午後3時に風速17メートルに達する強風であったという。

こうして倒壊と火災により市域の8割が被害を受けた。

 死亡不明者は2万4千263人、負傷者は1万1千781人に上った。

・・なお、港町で居留地を抱えていた事もあり外国人の犠牲者も多く、

死亡者は1831人、負傷者が2358人、行方不明者も1007人に

達した。山下町や山手など、開港以来居留地として栄え、洋風の煉瓦建築

などが立ち並んだ地域でも、強い揺れによってその被害を逃れる事は到底

出来なかった・・・”


 この記録は彩に衝撃を与えた。当時の被害の状況が、自分の想像を

はるかに超えたものだったからである。

「ああ、これでは無理。こんな状況で無事に生き延びることなんて、

多分奇跡に近いわ・・・」

 彩は絶望的な気持ちになって本を閉じた。そして大きな溜息を、ひとつ

つくのだった。


 5.新たな発見

 その翌朝のことだった。朝食の用意をしている彩のもとに父親が

息着せきって駆け込んで来た。

「彩、聞いてくれ。すごい事がわかったぞ!」

珍しく興奮している父の姿に彩は驚いて尋ねた。

「なあに?お父さんたら朝っぱらから・・・」

 すると彼は手に持っていた一冊のノートを彩の前に差し出した。

それは所々擦り切れている、古びた皮のノートだった。

見慣れない物を見せられて彩が首を傾げていると、彼は言った。

「実はな?これはお前のひいひいお祖父さんがつけていた日記帳なんだ。

夕べ久しぶりに出てきたんだ」

「へえー、ひいひいお祖父ちゃんっていうと、つまりひいお祖母ちゃんの

お父さんのことだよね?そんな物がまだあったんだ?」

「ああ、そうなんだ。実は先代の親父から僕に引き継がれていたんだよ。

それには理由があってね?この中には日々の生活の記録だけではなくて、

写真館で起こった様々なエピソードが綴られているんだ。例えばお客さん

とのやりとりや交遊の様子なんかがね?」

「・・ふうん、それは面白そうだね?」

 興味を引かれた彩は、そのノートを手に取っていた。


 「それでな?ここからが本題になるんだが、夕べこの日記帳を改めて

読み直して見たら、ビックリするような事が書いてあったんだよ」

「え、そうなの?ひょっとして・・・ラチェット氏に関する事とか?」

 そこで彼の目が輝いた。

「その通りだよ、彩。ここにはラチェット一家に関する重要な事柄が

書いてあったんだ」

「うわーそれで?一体どんなことが書いてあったの?」

 待ちきれないといった彩の様子に、彼は冷静な調子で言った。

「まあ、まずはよく聞きなさい。これを読んで僕が一番驚いた事は、

ラチェット氏からひいひいお祖父ちゃんに手紙が届いていたことなんだ。

しかもそれは戦後になってからのことだったんだよ」

 

 その言葉に彩は仰天した。戦後と言うことは、太平洋戦争が終わった

昭和20年(1945年)以降ということになる。するとあの関東大震災

が発生した大正10年、つまり1923年から少なくとも20年以上は

経っている事になるではないか・・・?頭の中で考えてみた彩は、ハッと

気がついて質問した。

「ねえ、お父さんちょっと待って。それじゃあその手紙はひょっとして

日本から届いたものではないんじゃない?」

「そうなんだよ。実はお父さんもそれを知って本当に驚いたんだ。

とにかくここを読んでみてごらん?」

 彼はそう言って付箋がつけられたページを開いて見せた。

そこには黒いインクで力強く記された文字が並んでいた。

 

 ”昭和24年4月3日。この日、夢かと思うような出来事が起こった。

午前中市内の郵便局から連絡があり、私宛と思われる外国郵便が一通届いて

いるので確認に来てほしいということだった。そこで仕事の手を止めて、

大急ぎで駆け付けてみた。すると、一通のぶ厚い封筒を手渡された。

見るとそれは英国から届いた物であり、正確な住所は記されていなかっ

た。しかし英字ではっきりと、”一ノ瀬写真館店主殿” と書かれている

のだった。・・・確かにこれは私宛てのようだ。しかし一体誰からで

あろう・・・?

 疑問に思った私は急いで差出人の名前を見た。するとそこにはこう記

されているのだった。ジェームス・ラチェットと・・・


 「ジェームス!ジェームス・ラチェットだと!?」

 驚きのあまり、私はその場で大声で叫んでしまった。

そう、彼は我が写真館の昔の顧客だった。そればかりではなく、私に

とって大切な友人のひとりでもあったのだ。

 懐かしい名前を見た私は、すぐにその場で封を開けて読みたい衝動に

駆られた。しかしよく見るとその封筒はぶ厚く、手紙の量はかなりのもの

と思われた。そこで私はなんとか思い留まると上着のポケットに大切に

しまい込み、一目散に家路を急いだのであった・・・”


 ここまで読んだ彩は胸が熱くなった。

「ねえお父さん、これってすごい事だよね?ラチェット氏は別れてから

少なくとも20年以上は経つのに、ひいひいお祖父ちゃんのことを忘れない

でいてくれたんだ?」

「そうだよ、彩。お父さんもこれには感動したよ。どうやら海を越えて

二人の友情は続いていたらしいんだ・・・」

 感慨深げに語る父に向かって、彩はさらに疑問をぶつけた。

「それにしてもちょっと不思議じゃない?ラチェット氏は一体どうして

急にひいひいお祖父ちゃんに手紙なんかを書いたんだろう?こんなに長い

年月が経っているのに・・・」


 彩のその疑問は、父親にとっても同じであった。

何故なら日記帳にはその答えとなる手紙の内容については、一切記されて

いなかったからだった。ただそこにはテープの跡らしきものがあり、

ページにはくっきりと、四角い封筒の跡が残されているのだった・・・

 それから二人は直ちに日記帳から消えてしまった大切な手紙を探し出す

ことに取り掛かった。そして倉庫の中を初めとして、写真館のあらゆる場所

を必死で捜索したのだった。

 ところが終日経ってもその手紙を見つけ出す事は出来なかった。

 

 彩はその日なかなか眠る事が出来なかった。

ラチェット氏が日本を離れてから数十年を経た後もなお、高祖父に

伝えたかった事とは一体何だったのであろう・・・?

何度寝返りを打って考えてみても、それは到底わからなかった。

 結局、その手紙のありかがわかったのは意外な所からであった。


                        

                        後編に続く






















 















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