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禅と茶道の美意識

タイトル画像の形は、蕎麦屋さんや懐石料理店などでよく見かけますよね。😊

これは「円相」といって、禅における悟りの境地を表す形なのだそうです。

お寺ではない場所にもこの形を使っている日本は、禅思想が深く根付いた国なのだなぁと、つくづく思います。

でも、「懐石料理」が豪華な料理の代名詞みたいになってしまったのは、本来の意図に反しているような気がしてなりません。

元々「懐石料理」とは、茶道に由来したものです。
抹茶のカフェインで胃を壊してしまわないように、お茶室に入る前に、客に振る舞われた簡素な料理を指していました。
「茶道」は、特に簡素を最高の美としていますから、振る舞われる食事も、『懐を石で温めて空腹感をしのぐような』少量の料理だったのです。
それが、お客様への『おもてなし』のあまり、だんだん品数が増え、豪華絢爛なものになってしまった。妙に高級感を持たせようとする日本人気質も相まって、食べきれないほどの料理になってしまったのです。

これって、本来の質素な茶道の美意識とは逆になってはいないだろうか・・・と思ってしまいます。

「宿坊」に泊まる観光客が、一汁一菜の食事に不満を言うのも、如何なものかと思います。
「あんた達は、お寺に泊まることを自分で希望して来たんでしょ!」って。
お寺は、お坊さんたちが修行する場所であって、贅沢をする所ではありません。贅沢をしたければ、ホテルに行けば良いのです。異国情緒なら、民宿。

仏教では、殺生を禁じています。だから、食べきれないほどの肉や魚を料理したり、食べたりすることは、教えに反する行為なのです。
また、それは食べ物を無駄にすることに他なりません。『食材』にされた獣や魚たちの命を無駄にすることに、罪悪感を覚えませんか?少なくとも私はそうですけどね~。

さらに世界には、食べ物に困っている人たちが大勢います。飢えて死ぬ子供たちも。なんて不公平な世界なんだろ・・・。しかもそれは決して本人たちの責任ではないのです。

仏教だけではなく、全ての宗教や政治は、人々を幸せにするものでなければならない!
(そうでないものは、まやかしです!)

そして、観光客たちは無責任であってはならない!そこで生活している人々に迷惑をかけてはならない!
もしそこがサッカースタジアムだったとしたら、誰もゴミを捨てたりしないでしょ。

美意識とは、そうしたものだ・・・と、私は思います。
禅は、心の塵や埃を払うことを良しとします。だから、いつでもどこでも自分が心から美しいと思える行動のみを行うのが本来の在り方であるはずです。

悟りと美意識は、時や場所を選んだりはしない!のです。


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