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無苦集滅道~得阿耨多羅三貌三菩提


無苦集滅道

「苦」もなく、それを集めることもなく、それを滅することもなく、そのための道もない。無智亦無得以無所得故
智恵がないということも、智恵を得るということもない。

菩提薩捶 依般若波羅蜜多故
菩薩(自ら悟りを開きながら、更に衆生をも優しく救わんと志す人)は、最高の智恵によって、

心無罫礙無罫礙故 無有恐怖
心に何も障りがたいので、何も恐れることはない。

遠離一切 顛倒夢想 究竟涅槃
一切の迷いや煩悩から離れ、最高の安らぎの世界へ至った。

「苦」あればこそ・・・。

 病気になって初めて健康の有り難みを知る・・・よくある話です。人生そのものについても、同じなのではないでしょうか?
 苦しみ悲しみを知らずに生きている人は、驕り高ぶり、他の人々を見下して、自分は決して間違いを犯さない、などと思い込みます。残念ながら、世襲化政治家の子息や国家公務員などはそのような人が出来やすくなってしまうようですね。人間、どこかで挫折をしておかないと反って『ダメ』になるものです。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とか「可愛い子には旅をさせよ」という言葉は、きっとそういう意味なのでしょうね。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故
過去、現在、未来の仏たちは、大いなる智恵によって、

得阿耨多羅三貌三菩提

究極の智恵の世界に到達したのである。

 この言葉は、サンスクリット語の音を漢字に当てはめただけですが、意味は「この上なき正しき悟り」「この上なき正しき体験」「この上なき正しき境地」の、3つの意味を兼ね備えているのだそうです。
 うーん、サンスクリット語って、かなり難しそう・・・。

人は『言葉』で『考えて』いる!

 でも、『言葉』が人間の思考回路に及ぼす影響は計り知れません。
 母国語の文法が複雑であればあるほど、思考は深くなるのでひないかと、私は感じています。
『人間みな同じ』・・・。命の重さは確かに同じです。でも、考え方は違う。違ってしまうのです。
 玄奘三蔵は、敢えてサンスクリット語から漢語に訳さない部分を残しました。それはきっと、サンスクリット語の持つ複雑な意味やニュアンスまで汲み取って欲しかったからでしょう。私はそのように思っています。

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