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だから東京はふるさとになれない

8月末にとしまえんが閉園して、はやくも解体作業が進んでいるという。
私にとってとしまえんは、幼いころからそこにあって当然の場所だった。

最初は身長制限で乗れなかった乗り物に、
大きくなるにつれて徐々に乗れるようになって、
中学生でついに全部の乗り物に乗れるようになって、
勇気を出してコークスクリューに乗ってみた、そのころには、
カルーセルエルドラドに乗るのはちょっと恥ずかしくなっていて、
それにあまりにも地元だったから、
高校や大学の友達と一緒にいくのはなんだか気恥ずかしくて、
少しずつ足が遠のいていった。
でも、数年前に結婚して子どもができて、また木馬の会に入って、
子どもと一緒に通うようになって、
カルーセルエルドラドに乗るわが子の笑顔を見て、
波のプールの波打ち際で座るわが子の姿を見て、
自分自身の人生が、しっかりつながっていることを思ったりした。
けれど、
わが子は今、身長108cm、
ブラワーエンジンに乗るにはあと2cmというところで、
としまえんは、閉園した。
としまえんはまっさらになって、
あとには外国の魔法使いの「博物館」ができるんだって。
子どもは「いらない」と泣いていたよ。

幼いころからこの街はそうだった。
愛着を持って遊んでいた公園、登下校の景色だった畑、
そういう大事な場所を、大人が勝手に、
マンションにしてしまった。
きれいな広場にしてしまった。
新品の遊具がある公園にしてしまった。
それまであった愛着を全部なかったことにして、
全部全部、「新品」にしてしまった。

「新品」なんかうれしくないんだ。
埃っぽくて古くても大事だったんだ。
ほしいのは「新品」のにおいじゃないんだよ。
そこに染み付いた「自分」のにおいなんだよ。
それを確かめるために、人はふるさとに戻るんじゃないの?
そこに「自分」のにおいがあるから、ふるさとなんじゃないの?

いつでも「新しい」街。
そんな街、誰がふるさとだと思えるんだろう。

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