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買い物で得られるもの、失うもの


 それは、唐突に、けれど確信を持って始まりました。
 実に124年ぶりに2月3日が節分ではなかった年の、春の気配と肌寒さが混在する頃、これまで何気なく続けてきた習慣を、もう続けられないと認識したのです。心の奥底から沸き起こる私の声は
「もう無理です。」
と叫び始め、その声はどんどん大きくなり、理由を問い正しても聞く耳も持てないほどヒステリックに喚き続けていました。

「とにかく出来ないんです。ごめんなさい、無理です。嫌です。不可能です。あの究極に便利な大型ショッピングモールに行くと考えるだけで背中がゾワゾワとして寒気を覚えるんです。」

 それ以来私は買い物に行く場所について吟味に吟味を重ね、私は一体どこならばストレスを感じずに楽しく買い物ができるのだろうかと考え続けてきました。世の中はどんどん便利になり時間が短縮できる仕組みが増え、あらゆる物品を簡単に手に取れる時代になりました。家から一歩も出ないままで生活のほぼ全てのものが玄関チャイムとともに届けられる、そんな現代社会に於いて、人々は買い物に一体何を求めているのでしょう。

 先に断っておくと私は決して大型のショッピングモールが嫌いなわけではありません。しかし何故か、家から歩いても行けるほど近くにあるすこぶる便利な大型店に足を踏み入れることに抵抗が生まれてしまったのです。あれこれと原因を探ってみた結果、どうやら問題は店に殺到する人の多さと、その人々から発せられる苛立ちの空気、棘だらけの矢がビュンビュンと飛び交う嵐のような、黒く重い見えない何かに圧迫されて呼吸困難に陥ってしまったようなのです。さらに断るならば私は霊能力者でもなければスピリチュアルなんとかな人でもありません。至極凡人的な80年代生まれの日本人女性です。だからこそある日突然に始まってしまった自分の心の叫びに戸惑いを覚え、一体全体私はどうしてしまったのかと混乱もしていました。

 とはいえ日常は続き、必要な食料品や日用品を買わないままでもいられず、恐る恐る自分の変化した心と向き合い、手探りで進み始めたのです。まずは過去の楽しかった買い物体験を思い出すところから始めました。私は一体買い物に何を求め、何は求めていないのだろう。その中で少しずつ分かり始めたことは、私はゆっくりと買い物がしたかったということでした。それは誰かにぶつかったことにも気が付けない程せかせかと急ぎ、前の人のレジが終わるのをイライラしながら待つような場所ではなく、お店の人との会話も楽しめるような、店員さんもお客さんも全員が時間にも心にも余裕があるような場所。静かで穏やかな空気が流れる買い物です。地域によっては大型店でも心穏やかに買い物ができる場所はあるとは思いいますが、昨今のコロナによるリモートワークが産出した郊外移住ブームにより、私の暮らす海沿いの静かだったはずの街はあっという間に様変わりしました。そして実はその移住ブームの裏で、元々地元に住んでいた人たちは空気の変化に耐えかね、持ち家を売ってまででも別の穏やかな場所へと脱出し始めています。住民の入れ替わりが加速しているのです。私たち家族はまだ脱出の算段が取れておらず、少なくとも数ヶ月はなんとかここでの生活を保たねばなりません。コロナがもたらした影響は想像以上に大きなもので、これは日常を確実に脅かす由々しき問題です。 

 さてそんな変化の最中で、私はどうすることにしたのか。数駅離れた街にわざわざ買い物に出かけるようになりました。なんでも揃う大型ショッピングモールを素通りして、電車に乗り、時にはバスも使い、静かな街へ買い物の旅に出ているのです。結果、交通費や店への移動時間が少し余計にかかるものの、その費用と労力を差し引いても余りあるストレスフリーを獲得しています。米は米屋さんで、野菜は八百屋さんで、うちの犬が食べるお肉は精肉店で、ソイミートやヴィーガンバターなど少し特殊なものはあえて高級オーガニックスーパーや昔ながらの小さな健康食品店で購入します。1軒ずつ買い物をして回るこの方法は効率が良いとは言えず、計画的に買い物に出かけなければなりませんが、それを苦に思うことは今のところ全くありません。むしろ大型店での買い物後の方がぐったりと疲れ果て、頭痛がする時もあり、手にはたっぷりと購入できた物を抱えているのに、帰宅後には何とも言えない虚脱感を感じていたことに改めて気付かされました。たった一回二回の買い物だけでは気が付かないことでも、毎日の積み重ねにより、目には見えない重苦しさが確実に澱のように心に溜まって行くのです。そしてその澱は濁りになり淀みになり、無視できないところまで来てしまい、ある日叫び始めるのです。「もう無理です」と。昨今はどうやら、なかなか過酷な時代のようです。毎日の何気ない行動こそ注意深く検討しなければあっという間に黒い波に飲まれてしまうでしょう。
 

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