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43.【お誕生日に寄せて】狐くんと心理学的決定論~そしてStand Alone Appreciation

久しぶりに文章を書きます。
皆様、お元気でお過ごしでいらっしゃいますでしょうか?

私の方は、お陰様でめちゃくちゃ元気で過ごしております。

6月3日から5日まで、日本舞踊協会主催の新作公演がございまして、その公演のための猛稽古が毎日続いております。

すごくすごくありがたい毎日です。

ふつふつと勝手に湧き上がる情熱・・・🔥

「あぁ私は表現することにこんなに喜びを感じるんだな」という、自分でも驚くような、しかし最近はかなり曖昧になりかけていた感覚を思い出させて頂いています。

そんな中、お陰様で今月21日にはお誕生日を迎えることができました🎂💓

本当に、ありがとうございます🙏✨

毎年のお誕生日には、自分と向き合いながら文章を書くのが、真利枝さん(あ、本名です)の中で恒例となって参りました。

毎年の投稿を読み返すにつけ、その時の自分なりに最大限に生きようとしている意志が伝わって来て、我が事ながら愛おしさを感じます。

ですが結果的に大変長い投稿となってしまい、皆様にはお付き合い頂くのが申し訳ない状態となっております笑。

ご容赦くださいませ。ふふふ。

【起】
さて。

今の真利枝さんは、すごく「宇宙」を感じています。
ただ感じているだけではなく、繋がっている感覚がとてもあります。

小さい頃から「目に見えない世界」にずっと関心がありましたし、「自分の存在は何なのだろう」「この世界とは、生命とは、魂とは何なのだろう」とずっと思って生きてきました。

だからこそ、こうやって踊ったり歌ったり何者かになったりするような世界に身を置くことになったのだと思います。

それと同時に、ずっとずっと「生きづらさ」も感じていました。

「他者と自分との関係性」「世界と自分との関係性」との間で思い悩むのはもちろんのこと、「自分と自分との関係性」で生じる悩みが一番大きかったと思います。

多かれ少なかれ、きっと皆様もそうなのではないかと思います。

特に「自己嫌悪」という感情をどう処理するか。
自分で自分の首を絞めてしまう癖、つまり負の思考パターンから脱却できないことが一番辛かったです。

だから、「何とかなりたい」という一心で、心理学・精神医学・哲学・スピリチュアル・神道・仏教・超常現象にまつわる本をたくさん読んだり、映画や舞台やアートから何か得られないものかと貪欲に求めて来ました。

それはそれで得るものもありましたし、学べることも沢山ありました。
が、今一つ、負のスパイラルから抜け出せない焦ったさも感じて生きて参りました。

そんな中、衝撃とも言える転機が宇宙から降って参りました笑

ちょうど、昨年の初夏の頃です。

私はよく「私って狐を飛ばせるんですよ~」と冗談を言っていました。

見た目が狐っぽいと言われていましたし、親しい皆様はご存知の通り、割とキツくてブラックな部分がありますので、そんな風に自分を茶化していました。

『ユキちゃん』という白狐のぬいぐるみも所持しておりますので、お馴染みの皆様もいらっしゃるかと思います。

可愛いユキちゃん

ただ、冗談で済んでいたら良かったのですが、昨年、本当に私はユキちゃんを意識的に飛ばしてしまったのです。

心の底の底から人々を妬み、恨み、悔しい、悲しいと思ったのです。
(めちゃくちゃセルフィッシュでごめんなさい)

「おい」って思いますでしょ?
自分でも思います。
でもそれだけ腑が煮え繰り返って、周囲のことが何も見えなくなってしまったのです。

そうしたら、私のユキちゃんは良くも悪くも超優秀だったみたいで、見事に飛んで行ってくれました。そして存分に暴れ回ってくれました。

でも、他所で暴れた分だけ、帰って来た時には私にまで爪を立てました。

私も傷だらけになりました。

ユキちゃんを飛ばしてみた結果として、私が得るものは何もありませんでした。

なんなら傷口がめちゃくちゃ痛みました。

これまでも「死にたい」と思うことが何度もあり、人や物に当たることも何度もありました。そんな時も、きっとユキちゃんを知らず知らず世界に向かって飛ばしていたのでしょうね。

憎しみを世界にぶつけても、憎しみが自分に返ってくるだけ。
結局一番苦しいのは自分自身。

とにかく、昨年の夏から秋にかけて、最低最悪な状況と真っ黒なメンタル世界に私は堕ちていきました。

本気でこの世界から消えちゃおうかなと思いました。

でも。だからこそ。

だからこそ、本当に本当に心の底から「私は自分を愛したい」と思いました。

「死にたい」と強く思う気持ちの反面、同じ強さで「生きたい」と思いました。

【承】
ちょうどその年の春頃に、私が尊敬する経営者の方から「瞑想」を薦めて頂いたので、とにかく生きるために出来ることをやってみようと思い、日々実践しました。

瞑想とは、自己の内面をひたすら見つめていく行為です。
自分の中の海に深く潜っていく行為です。

その過程で「そもそも私は人生というものをどういう風に捉えているのか」という問いが湧いて来たので、それを見つめることにまずは注力しました。

その結果として、私は人生というものを「困難を乗り越えながら、設定した目標に向けて弛まず努力し、達成を繰り返しながら成長していくものだ」と思っていたことに気がついたのです。

そのマインドで進んでいくことで、上手くいくことや道が切り拓かれていたと思うことも、勿論たくさんありました。

ですがそれとは裏腹に、その目標に到達できなかった時や自分のビジョン通りに物事が進まなかった時、私は周りの人達に、そして自分自身に激しく失望し「狐くんアタック」を繰り広げてしまっていたのです。

さらに「こんな自分は嫌だ、何とかなりたい」と「不足」や「欠乏感」から何かを求めていたことにも気が付きました。

不足感や欠乏感を心に抱いている自分は、まるで砂漠のよう。

どんなに本やアートといった「水」を与えても、その潤いは砂の中に吸い込まれてしまっていました。

そんな自分の内面を根本から変えない限り、きっと同じことの繰り返しなのだと気が付いたのです。

もっと余計な力を抜き、豊かで幸せでいること。
自分も、周りも、愛し、愛されること。

「そんな考えは甘い」と思っていたことを、自分に許してもいいのでないか…

そう思ったのです。

世界は美しく、関わってくださる皆様はみんな優しくて、私もそんな中でリラックスして笑顔で楽しく過ごす。

そんな宇宙がきっとパラレルワールド的に存在するはずだし(映画『 EVERYTHING EVERYWHERE ALL AT ONCE』のように)、「その世界線に行く」と何よりもまず自分自身が決めれば、私たちは誰でも、きっと優しくて愛おしい宇宙にいけるのではないかと思ったのです。

だって、この世界の主役は「私」なのだから。

【承の補足】
補足的になりますが、ここでいう「この世界の主役は私」というのは、傍若無人に振る舞っていいとか、人に迷惑をかけても自分さえ良ければいい、ということでは勿論ありません。

結局人は、この宇宙がどんな構造になっていようが、目に見えない世界が無限に広がっていようが、この夢のようなリアル世界を生きることができるのは「私」という主観的な視点からでしかありません。

「私」が五感を使って認識出来る範囲のこと以外を把握することは、どうしたって難しい話であります。

逆に、この宇宙を認識するためのツールとして、私たちは五感というもの(私は六感だと思っていますが)を創造主から与えられた訳です。

私たちは世界を認識する術を「私からの視点」でしか持っていないし、それによって認識できたものが全てであり、世界であり、宇宙であります。
(私はこの事実を、とても奇跡的でありがたいことに感じます。神様からのプレゼント最高!)

そして生きとしいける全ての生命の数だけ宇宙があり、その宇宙の主人公は「私」なのです。

多種多様な宇宙の存在を認め合い、受け入れ合うことが、コミュニケーションの第一歩だと思いますし、それが愛ということなのだと思います。

そんな意味で「この世界の主役は私」と申し上げました。

【転】
話を戻します。

この世界の主役は私なので「私はこういう舞台で生きたいのだ」と思えば、きっとそんな舞台を生きることができるのではないかと真利枝さんは思いました。

結果はどうか。

はい、できました。

先程も申し上げた通り、
「自分を愛したい」「優しくて愛に溢れた宇宙に生きたい」と私は思い定めました。

「希望する」とか「こうなったらいいなぁ」と思うレベルではなく、肚の底から「決めた」のです。

じゃないと「もう、死んじゃう」という感じだったので笑。

そこから色々なことを実践していく中で、今までの様に「砂漠に水をやるような吸収の仕方」ではなく「少しずつ土に栄養が溜まっていく」という感覚がありました。

シンクロニシティというか、私自身が動き回らずとも、クリスマスプレゼントのように色々な機会や人とのご縁(出会いだけでなく、別離も含め)や学びのツールが、私の手元にやってくる様になりました🎀

その中でも、ターニングポイントとなった考え方をご紹介したいと思います。

妹尾武治先生という、心理学博士の先生がいらっしゃいます。

東京大学院まで出られた後に、世界の大学の研究員をなさり、今は日本に戻られて教鞭を振るう傍ら、研究を続けていらしゃいます。

妹尾先生が書かれた『僕という心理実験』という著作がございまして、
詳しくは是非こちらの御本をお読みいただきたいのですが、そこで論じられるのが《心理学的決定論》という学説でございます。

つまり「未来は決まっており、自分の意志など存在しない」(というタイトルの著作もおありです)という論なのです。

かのシェイクスピアのお言葉通り

「All the world's a stage,-And all the men and women merely players.」 

『お気に召すまま』より

という訳でございます。

人生には、あらかじめ脚本が存在している。
自由意志というのは幻想で、全ては決まっている。
(なんなら私は、この本を読み終わった後、自らの手で人生脚本を書いて、この世に生まれてきた様に思いました。)

『そんなはずない!』
『自分の意志で決定できないなんて、夢も希望もない!』

というご意見が飛んでくるのが見える様です笑。

ただ、ここでは心理学決定論について論じる場ではなく、それと出会ってどういう風に真利枝さんがそれを捉えたかということをお伝えする場なのでご容赦くださいね。

とりあえず、一旦本の中からいくつか引用させてください。

「全ての事例が事前に確定しており、自分の意志で行動を左右できない。行動とは環境と脳の相互作用による必然である。」

「我々に自由意志はなく、暴走する脳は止められない。・・・人は環境との相互作用によって、刺激に対して全自動的に行動を紡ぎ出されているような存在である。意思決定よりも先に脳が準備電位を発しており、外界からの刺激に対して自動的に脳と身体は反応を始めている。意志は事後的に付与される錯覚に過ぎない。」

「世界とは、自分の心があるのみで、神とは自分である可能性がある。夢・量子論・唯識・決定論はほぼ同一のことを別角度から見たものともいえ、世界の中心は自分の心なのだ。意識が実在で、モノがあやふやなもの。そう考えるべきなのだ。我々は環境からの刺激の奴隷である一方で、世界の主「神」である可能性も同時に持った存在なのだ。」

「この世は情報が統べる世界であり、情報こそが生命であり意識である」

だいぶ刺激が強いお話かと思うのですが、要するに脳科学や心理学、最先端の量子論や宇宙の研究、または宗教として古から伝えられていたこと、全てがこの《心理学的決定論》に帰着していくのです。

引用箇所だけ読まれても『なんの根拠があるんだ』と思われるかもしれませんが、
科学的に実験し、証明されている根拠がそれぞれにあります。

それを受けての、真利枝さんの感想はこうです。

宇宙が生まれた138億年前から・・・

今日この人とご飯を食べることも
食べるご飯が焼肉なことも
普段だったら来ないようなあまり綺麗ではないお店を選んだことも

もし、全てが決定しているとしたら・・・

『それってなんて素敵なことなの‼️‼️‼️』

《今》この瞬間の尊さ。

あの時に、あの人と出会っていなければ。
あの時に、この道を選んでいなかったら。
あの時に、やりたかったことを諦めていなかったら。
あの時に、憎しみの果てに狐くんを飛ばしていなかったら。
あの時に、自分を嫌悪していなかったら。

この《今》は、結果的に存在しえない。

そして、そうなることは全て、138億年から決まっていた。

この事実に直面した時

『ありがとう‼️‼️‼️』

という言葉しか湧いてきませんでした。

何があっても、その時はマイナスに思えた事柄でも、結果として今までの人生で起きたことは「全て良きこと」でした。

死にたくなったから、本気で生きようと思った。

自分が嫌いになるくらい人に対して酷い当たり方をしたから、人間関係についてもう一度考え直した。

そして今、なぜか私は舞台に立つために日々稽古をさせて頂いている。

だから、目の前に来てくれた機会・人・仕事・自然を、全力で大切にして愛したいと思いました。

だってそれらの全てが、宇宙が誕生した138億年前から決まっていた、神様からのプレゼントだという事がわかったから🎀✨

【結】
昔「白龍さんが守ってくれている」と言われたことがありました。

私は白龍(名前は白雷さんと言います)の背に乗っていて、
手には白狐のユキちゃんを抱っこしています。
そして宇宙をピュンピュン飛んでいる。

今は、そんな状態かなぁと思います。

きっと私の陽のエネルギーが白雷さん。
陰のエネルギーがユキちゃん。

太極図のように陰陽が和合し、この世界はできている。

これが宇宙の法則。

138億年まえのビックバンから決まっていた、素敵な法則✨

ユキちゃんの存在も、ユキちゃんが暴れ回っちゃうことも、決まっていたことだとしたら、私はユキちゃんの存在を淡々と受け入れて、許してあげたい。

自分に対してそうできた様に、関わってくださる全ての皆様に対して、この世界の全ての現象に対して、感謝して受け止めていきたい。

そして、愛していきたい。

物事には本来何も意味はありません。

ただそこに花は咲き、雨は降り、人と出逢い、別れがくる。

それはただ単に物理的な現象に過ぎず、脚本の中のセットのようにただそこにあるだけ(起こるだけ)です。

無色透明の現象に色をつけたり、意味をつけているのは「私の心」。(色即是空、空即是色)

同じ花を見て涙を流す人もいれば、喜びに溢れる人もいる。

「幸せ」も「不幸」もこの世には存在していません。

ただ、そう感じる「この世界の主人公である私」がいるだけ。

だったら、私の感じ方を、世界に対する意味付けを魔法の様に変えてしまえばいい。

全て、愛と感謝の色をつけてしまえばいい。

そうすれば、宇宙は全てが美しい。


最後に

愛を込めて…

いつも本当にありがとうございます!

まり草

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