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名前のつけられない人間関係 |違国日記を読んで

家族、夫婦、友達、恋人その他もろもろ、人との関係を表す名前はたくさんある。
そして、そのどれにもしっくりこない、名前のつかない関係の人がいる。
私は、その名前のつけらない関係の人たちのことを、とても大切にしたいと思っていることにこの漫画を読んで気が付いた。

ヤマシタトモコ著/『異国日記』だ。(現在第八巻まで発売中)
『この漫画がすごい!2019』オンナ編にも選出されている安定感もあり、
電子書籍で読み始めた。家族というカテゴリからはみ出ている関係性に興味を持ったからだ。
物語は、亡くなった姉の子ども(中学生)を引き取った作家ふたりの生活を中心に、人の変容をじっくりと描いている。


主人公、槙生と朝の関係は叔母と姪にあたる。姉と母(朝は父も)亡くした遺族であり親族だ。
しかし、槙生は朝に「あなたの親代わりにはなれない」度々そう告げる。朝が言葉にせずとも、槙生に「親」を求めてることが分かっていても、スタンスは変えず、敢えて言葉で伝える、はっきりと。

槙生が朝を引きとったのは「衝動」だ。一方で、朝が槙生との生活を自ら選んだとはいいがたい(意思決定はしているが)
両親を失い、同情しても保護者になる覚悟はない大人たちの事情を理解できてしまった朝にとって、槙生からの提案は希望ではあったが、それしか選択肢がない絶望にも思えたのではないか。そんな二人の関係が、お互いの存在に慣れず、戸惑いながら育む関係を「叔母と姪」「遺族」とあてはめてしまうのは、もったいない気がした。
人が本気でダイバーシティ社会を創るとき、従来の名前では表現しきれない人との関係が増えていく予感がする。この、槙生と朝のような、親子でも家族でもない、でも生活を共にするためにお互いの居心地の良さ、安定した生活や秩序を協力して作り上げていく関係、羨ましい。


ヤマシタトモコ/『異国日記』特設サイト

そして、この物語の裏テーマ(主観)は「怒り」だ。
槙生は不機嫌がデフォルトだ。少年少女向け作家という自宅仕事も、それを加速している。朝に対しても「子ども」扱いしないどころか、「不機嫌」を思い切りぶつける。槙生は、朝が槙生の生活に加わることは許しても、槙生の生活が乱されることを許さず感情をぶつけて怒る。槙生は自身の中に、炭火のように静かな「怒り」を抱いて生きている。

2人の間をつなぐ「姉・母」は二人にとっては冷たい人だった。わかりやすい愛情を言葉で、態度で示す人ではなかった。
姉は槙生の人生を支配しようとし、それに抗う槙生を否定し続けていた。
槙生は、死してもなお姉に憎しみと怒りを抱き続けている。でも、その感情は「姉」の亡霊に向けられ、朝とは切り離されている。
しかし、朝にとっての「母」は未知のままだ。愛されているのかさえ疑い出した矢先の「母の死」を自分の影に閉じ込めたまま、「姉」を憎む槙生の感情に自分が与えている影響を怖れている。そして、生前どこか冷たい母に対する「怒り」の矛先をどこにも向けられず、押し殺している。
朝が「母の死」を受けとめるには「疑念」と「怒り」を通過しなければならない。子どもの時に親が死ぬという経験は子どもからある種の感情を奪い去る危険がある。

人前で不機嫌を露わにすれば「フキハラ」と言われるこの時代に、槙生の態度は「正直物の変人」か「ある種のヒーロー」として取り扱われがちだが、この物語では、普通の生活者として描かれていることが、とても好ましい。
ヒトに怒りという感情が備わっているのには、ちゃんと理由があるはずだ。
だからこそ、怒りの取り扱い方を若いうちから身に着けおくことが、たやすく理不尽に巻き込まれる社会では、自分を大切に取り扱えるようになるために必要不可欠だと思う。
槙生は意図してそうしているのかわからないが、私は朝が槙生から怒りの取り扱い方を学び、身に着けて欲しいと願っている。


妙な気遣いから相手を追い込んだり、怒りをぶつけたりして少しずつ距離感を埋めていく二人の物語を、どこか自分の物語として読んでいる。
まだ続く、ふたりとふたりを取り巻く人々のなかにこっそり自分を紛れ込ませながら、朝の成長とこの先の物語を楽しみにしているのだ。


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