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祖母の命のために

「死にたいなんて思ってないのよ。でももうわからんのよ。庭をいじったり、お花を世話したり、食べたいものを食べたり、ほら、私こういう変なカバーとか好きでしょう。こういうもの縫ったり、そういうことがしていたいのよ。」

祖母から「死にたいなんて思ってない」という言葉を聞いたのは初めてだった。祖母はよく、「まあもう私、死にたいわ。」とまるで歌うかのように軽く口にしたから。もちろんその言葉が、祖母の何かの行動に繋がるなんてことはないのはわかっていて、それは、もう30年以上前に亡くなった祖父に会いたいという、祖母なりの遠回しの言い方だった。

だから、祖母が肩を縮めてそう言葉を発したとき、私は、いったい何と声をかけたらいいのかわからなくて、ただ、祖母のむくんだ足を揉み続けた。

祖母と私

私にとって祖母は、安心の源だった。
でもよく考えると不思議な気もしてくる。私は、祖母が大好きで、根っからのおばあちゃんっ子で、幼い頃は毎日のように祖母のところに遊びに行ったけれど、特段、安心感を示すようなエピソードが、まるでない。どうしてここまで祖母が安心をくれるのか、うまく、説明ができない。私は何かを祖母に相談したこともなかったし、弱音を吐いたこともなかった。私の人生における重要な選択の問題とか、苦しさとか、悲しさとか、そういうものを、一切、祖母に共有したことはなかった。祖母も私に重要なことはきっと話してこなかったし、なにかアドバイスをくれるようなこともなかった。

私と祖母の間にあった会話は、近所の山田さんの近況とか、角を曲がったところの豆腐屋さんの話とか、スーパーでたまたま出会った人と友達になった話とか、ぜんぜん知らないちあきちゃんの話とか 。私はただ祖母の話をうんうんと言いながら聞いていて、祖母を思いついた順に脈絡もなく話を進めるだけだった。

それでもその祖母の存在が私を確実に支えてくれていたし、祖母も私の顔をみることを毎回心底喜んでくれていた。


そんな祖母が数年前から体調を崩し、今年はついに、思うように歩くことができなくなった。常に動き回っていることが好きで、庭で花を育てたり、金魚を世話したり、落ち葉を履いたり、掃除をしたり、そういうことが生きがいだと話していた祖母だったから、きっと、歩けなくなったことの衝撃は、私が想像しているよりももっと、大きかったんだろうと思う。

生活を依存すること

歩けなくなることは、自由から遠ざかることでもある。

行きたい場所に自分ひとりで行くことができない。外出という意味でなくても、好きなように掃除ができない、お風呂に入れない。すべて、人の手を借りることになる。そして、生活を人に依存するようになったとき、命の問題は生まれるんだと思う。

「最近、よくわからないことが多すぎるのよ」そう言って祖母は泣いた。
自分の身体のこと、市役所に行けばあるという介護の相談窓口のこと、保険のこと、今後のお金のこと、父のこと、母のこと、叔父のこと、間違い電話をしてから電話をかけるのが怖くなったこと、身体のために食べるよう勧められる食事のこと、お風呂を人に入れてもらう恥ずかしさのこと、一人だと危ないから出歩かないでと言われたこと、門に鍵がつけられたこと。

「死にたいなんて思ってないのよ。でももうわからんのよ。庭をいじったり、お花を世話したり、食べたいものを食べたり、ほら、私こういう変なカバーとか好きでしょう。こういうもの縫ったり、そういうことがしていたいのよ。」


祖母の命のために

祖母の命とはなんだろうか。
「まあもう私、死にたいわ。」と口癖のように言った祖母の命は。祖父との思い出のあるこの家で、大好きな庭いじりができるこの家で、最期を迎えたいと何度も何度も言っていた祖母の命は。
危ないから出歩くことをやめさせ、花を世話することをやめさせることは、いったい、祖母の命を、大切にしているのだろうか。「申し訳ない」と言ってごはんを残す祖母に、無理やりごはんを食べさせることは、祖母の命を大切にしているだろうか。

どうか、祖母から選ぶことを奪わないで、と。
それが、祖母の命を大切にすることだと、私は今はそう思っている。できないことがどれだけ増えても、祖母は赤ちゃんではない。意思を持った、感情を持ったひとりの人間で、決してなにもできない人ではない。どれだけ言葉につまっても、考えを口にするのに時間がかかっても、それが回りくどくてわかりにくくても、ちゃんと、意思がある。代わりに選択してあげるなんて、そんなお世話は、必要ない。

祖母を閉じ込めることで、救われるのは誰ですか。祖母に無理やりごはんを食べさせることで、救われるのは誰ですか。祖母ですか。それは祖母の身体の話ですか。感情の話ですか。祖母の選んだちいさな毎日の充実感を大切にすることが、祖母の選んだ申し訳なさを尊重することが、祖母の命の尊重では、ありませんか。


誤解を恐れずに言えば、祖母の身体を生き延びさせることだけが、祖母のためになるのではないと、私は思っている。大好きな祖母だ。いなくなったら私は耐えられるのか正直わからないほど頼りきっている祖母だ。どれだけ私が祖母の存在に生かされてきたかわからない。
死の話をするのは、まだ早いのかもしれない。それでも私はずっと覚悟している。「またね」と言うたびに最後を想像して、そのたびに涙が溢れるけれど、それでも祖母が望むなら、私は祖母のどんな死に方も受け入れたいと思う。


無責任な私だから、そう言えることなのだろうか。「あなたにはわからないでしょうけれど」それが、毎日祖母の生活の助けを担う母の言葉だった。私には、わからない。毎日の母の努力も、愛情も、意地も、見栄も、正解も。私がここにいないから、私が毎日助けるわけではないから、意見を言う資格は、ないのだろうか。たしかにそうかもしれない。介護の大変さなど、もちろん私にはわかっていない。週末が終われば私は東京に帰るから、母のやっていることすべてを、代わることもできない。結局その程度じゃないかと言われれば頷くしかない。わからない。わからせてほしい。でもそんなのは無駄だと言うのなら、じゃあせめて、私のことなどわからせなくたっていいから、目の前で「嫌だ」と意思を示している祖母の叫びを、贅沢な文句だと笑わずに、本気で聞いてあげることは、できないのですか。


***

泣き疲れた子どもみたいに私はそのまま眠ってしまって、目がさめると祖母は何事もなかったみたいに、私のよく知った笑顔で笑っていた。いつもより少し動きにくそうに足を動かしながら、窓際のカーテンを閉めようと手をのばす。窓枠にひっかかって動かないカーテンに手を貸すと、いつものように「ありがとう」言ってそばにある椅子にゆっくり腰をおろした。

私は誰よりも祖母を愛しているつもりだったのに、祖母のために、何をしてあげたらいいのか、わからない。

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