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タイムマシンで。

母が亡くなったのは、ちょうど1年前。ホスピスに転院してから、5日目の未明だった。もうかなり弱って、眠ってばかりだったし、先生から説明も聞いていたのに、私はちゃんと認識できていなかった。母は、もう点滴がはずされていて、自分の体力そのものだけでベッドにいることを。面会にいっているときだけでなく、ずっと眠ってばかりだということを。

ちょうど1年前、面会にいく途中の駅で、主治医から「今日は泊まってもいいですよ」と唐突に電話があった。母は寝てばかりだし、いつもどおりで、泊まる用意もしていないので、いきなり言われても・・・と思ったけれど、一晩ずっと一緒にいられるなら、それもいいかと思った。父が亡くなったのは、もう大昔だが、母が足腰悪く、大阪の自宅から病院まで電車で少し距離があったため、私は小さかった娘を東京において、母のかわりに、父の入院する大阪の病院でしばらく泊まり込んだりしていた。完全看護だったのだが、父の身の回りを世話をするのに、7,8回くらいは簡易ベッドで泊っただろうか。そんな感覚で、一晩、母の部屋に泊まってみてもいいなと思ったのだった。
病院に到着すると、いつものように、母はすやすやと眠っていた。

そう、それから24時間後に起こる出来事を全く予想できていなかった。

折しも、翌日は、朝9時から大事なプレゼンがあった。私がプレゼンするわけではないが、チームの今後が決まるとても大事なプレゼンだ。そして大学の講義もあった。コロナ下では動画で配信するだけだが、病院から帰宅してから準備するつもりで用意できていなかった。お泊りだから、明日の講義はお休みさせてもらおう、と夕方大学にメールして、晩御飯はどうしようかと思っていたら、看護婦さんが「こっそり部屋で食事されても大丈夫ですよ」と言ってくれた。コロナ下では、ホスピスでも、お見舞いの人が食事するのは禁止だったのだ(マスクをとるという理由からだろう)
近くのコンビニでおにぎりとお茶と買ってきて、母の顔をみながら食べたのが午後7時くらい。明日朝のプレゼンが気になって、「早朝に自宅に帰ってもいいですか?」とのんきな質問をしたら、「もし自宅に帰るなら、安定してる今がいいですよ」と言われた。
「安定している今??」よくわかっていなかった私は「いま、帰ってもしかたないから、やっぱり泊まって、なんなら、病院の部屋からプレゼンに参加するしかないか・・・」なんて思っていた。

1年後の私は、そのあと、どうなるか知っている。まるで、タイムマシンにのって過去に帰っているみたいに。

おにぎりを食べていたその数時間後に、母が静かに息をひきとるなんて、想像もしていなかった。
12時をすぎたころから、看護婦さんが急にあわただしくなり、何人もが、何回も、脈をみたり血圧をみたり・・・していたような記憶があるが、覚えているのは、「ちゃんと聴こえているから話かけてあげて」という言葉と、その後、「もうすぐ呼吸が少なくなります」という言葉だけ。
「呼吸が少なくなるって、え?え?どういうこと??」まごまごしている間に、母はほんとに眠るように、静かに、息を引き取った。全く苦しむ様子もなく、だんだんと呼吸が少なくなり、やがて息をしなくなっただけ。
実際に呼吸が止まったのは夜中の1時半くらいだっただろうか。家族に連絡してお葬式の手配をして、なんだかよく覚えていないが、気がついたら空がうっすら明けていた。明るくなった部屋に、まだ眠っているままのような母がいた。

1年前の自分に戻れるとしたら、24時間以内に母が逝ってしまうのだから、今のうちに、とにかくもっともっと話かけて、と言うだろうか。
いや、その1週間前、その1カ月前に戻れるとしたら、あと1週間、あと1ヵ月しかないのだから、もっと世話をしてやっていたらよかったのではないか。いや、その半年前、その1年前、もっともっと前から、もっとすべきことがあったのではないだろうか。ショートステイは最低限にして、一緒にいる時間をもっと長くしてやればよかったのではないか。考えたらきりがない。ただ過去の毎日の積み重ねがあるばかりだ。

1年前の自分は、まだ何もわかってなくて、何も気づかずに、生きている。
実際には、タイムマシンで過去には戻れない。
母を亡くしてから、同時になくなってしまった心の一部は今も修復されたのかはわからない。今、できることは、来年の私がタイムマシンで今の私をみたときに「まあまあがんばってたよな」と思えるように生きることだ。私自身が、母の遺してくれたものなのだから。そして、毎日毎日の積み重ねが、過去になっていくのだから。


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