見出し画像

はじめましてイナムラマリコです

元ウエディングプランナーのイナムラマリコです。

23歳でその道に入って36歳で引退するまでの
13年間、ウエディングプランナーとして
じぶんの人生を捧げてきました。

わたしは結婚式と結婚式に関わるすべての
ひとたちがだいすきです。

いろいろ言われることも多い業界ですが、
結婚式に関わるひとはそれぞれに想いを
持って働いていると信じています。

プランナーを辞めた後の”おまけ”みたいな
人生をどのように生きようかと考えたとき、
わたしは
「ウエディング業界で働く人の助けになりたい」
とおもいました。

なぜそんな考えに至ったのか、
はじめにわたしのプランナー人生を
振り返ってみることにしました。

23歳|レストランではじめて結婚式の担当を持つ

初めてウエディングプランナーとして働いた
のは大阪・梅田に当時オープンしたばかりの
おっしゃれーなレストランでした。

23歳でも中学生くらいにみられていた
おぼこさ満点のわたしは、GMの金髪イタリア人に
「髪型とかメイクとか
もっとなんとかならないの?」
と言われていました。

なんともなりませんでした。

それからいろいろありまして、
24歳で別のレストランへ。

24歳|結婚式の本質を学ぶ

↑当時書いたブログが、
インターネット上に漂っていました。

続いてわたしを拾ってくれたのは、
大阪・長堀橋にあった歴史的建造物を
まるごとリノベーションした一軒家レストラン。

めちゃくちゃかっこいい建物でだいすきでした!
(今はレストラン閉めちゃってるけど
建物は残っているはず)

わたしはここで3年働いてチーフ職も
経験したんですが、ここがわたしの
プランナーとしての土台をつくってくれました。

結婚式とは。
ウエディングプランナーとは。
演出のひとつひとつの意味。
いただくお金の重み。
パートナーさんとの関係の築き方。

働いていたのは10年以上前ですが、
たくさんのお客様にも恵まれて、
今も年賀状のやり取りをするお客様も
いらっしゃるくらい、めちゃくちゃ濃い
3年を過ごしました。

27歳|初めて大阪を飛び出す

きっと女性なら迷いが出始める
年齢じゃないでしょうか。
わたしも例にもれず、めちゃくちゃ
迷っていました。

結婚を考える大好きな彼もいましたが、
それよりも仕事を極めたい気持ちが
勝っていきました。

このまま20代が終わってしまう。
仕事がめちゃくちゃ楽しくて、
めちゃくちゃしんどくて。

毎日終電ギリギリまで仕事して、
時には終電ダッシュが間に合わず
タクシーで帰ったり。

休みの前日は朝まで働いて
始発で帰ったりもしていました。

20代半ばの生意気な小娘は
「ここにいてもこれ以上の成長はないかも」
なんて思ってしまうのです。

成長できるかどうかは自分次第なのに、
周りのせいにしていたんですね。

そんな時、初めてプランナーとして働いた
レストランの元上司から声をかけていただいて、
広島のとあるリゾートホテル
(いまやとっても有名になって
なかなか泊まれないホテルに!)の
ブライダル部門の立上げに
いくことになりました。

生まれて初めて、大阪を出ることにしたのです!

広島でも本当に人に恵まれました。

ここでの結婚式の仕事はとても過酷で、
毎日泣いていたし、円形脱毛症になったり
十二指腸潰瘍になって血を吐いたり
散々だったけど、そこで働くみんなのことが
めちゃくちゃ大好きでした。

もちろんお客様のこともだいすきでした。
だからこそ、わたしがこんな気持ちで結婚式に
携わっていることが失礼だ、と。

管理職の方々の圧力や意味の分からない
上司からのパワハラに悩まされ、
身も心もボロボロになっていきました。

このままだと結婚式が嫌いになってしまう
んじゃないか、でも大阪でお世話になった方々
(最初はすごく反対されたけど最終的には
わたしの決心を応援して送り出してくれた
みなさま)の手前、またすぐ大阪に帰るなんて
情けなすぎる…


そんな葛藤の末、
それでも2年で大阪に帰る決心をします。

29歳|憧れの会場からオファーをもらう

大阪時代、すごく憧れていた先輩プランナーが
結婚式をしたゲストハウスからオファーがきて、
何度か面接に広島から通い、
採用が決まりました。

面接のときに、当時の支配人に館内見学をさせて
もらって感動して泣いてしまうくらい、
すばらしい会場でした。

ハードだけでなく、そこで働くみんなの気持ちが
美しかった…

一度は広島で
「結婚式が嫌いになってしまう前に
プランナーを辞めよう」とまで思っていた
わたし。

プランナー人生を終えるならここだ、
とおもえた場所でまたイチからお仕事を
させてもらうことにして、広島から大阪へ
帰ってきました。

32歳|病に倒れる

水を得た魚のように生き生きと、
素晴らしいお客様と環境と仲間とパートナーさん
に恵まれて、
「わたし生きてる!」と感じる日々。

当時わたしは、結婚式の担当をフルでもち
(一貫担当制)、その上挙式後のカップルさんに
向けた「おかえりなさいイベント」を年に数回
企画運営。

ホームページのリニューアルや季節ごとに変わる
メニューの撮影や説明文の作成など、いろーんな
仕事を担当していました。
(特に特別なことじゃなく、みんな同じように
いろんな仕事を抱えていました)

当時のわたしの口癖は、
1日24時間じゃ足りない!
もっと時間がほしい!

時間がもっとあれば、
もっといい結婚式がつくれる…

それが正しいかどうかはわかりませんが、
とにかく時間が足りなくて、毎日仕事に追われて
いて、その帳尻を合わせるためには休日出勤を
するしかありませんでした。

そんななか、少しずつ体に異変を
感じはじめるのです。

「なんか変、なんか変」と思いつつも
そんな体の声に耳を傾けている余裕が
一切ありませんでした。

いよいよやばいと思ったのは、担当の結婚式の
最中でした。急にろれつが回らなくなり、
声が鼻から抜けて発声がままならず
重要なタイミングでインカムで指示を
飛ばせなくなりました。

パニックに陥ったわたしは、
ヘルプを求めて事務所に駆け込み、
そのまま過呼吸を起こし
動けなくなってしまったのです。

その後検査を受けた病院で
【重症筋無力症】という国の指定難病の
診断が出て緊急入院。

同時に発覚した腫瘍の手術などで約4か月、
休職することとなりました。

担当するはずだったたくさんのお客様は、
上司が全て引き受けてくださいました。
もう本当に消えてなくなりたい気持ちで
いっぱいでした。

担当できなかったお客様の映像を
上司が病院まで届けてくれたことがありました。

病棟内の談話室で小さなDVDプレーヤーを
再生させたとき、上司や母親の前で
小さな子供みたいにウワーンと声を上げて
泣きました。

わたしの病気は完治しない。
もうプランナーは続けられないかもしれない。

でもわたしにはプランナー以外の生き方が
分からない。

33歳|働き方を変えざるを得なかった

4か月後、なんとか職場復帰を果たします。

けれど、もうわたしはみんなのスピードに
全くついていけなくなっていました。

担当件数もかなりセーブしてもらい、
残業も極力しなくていいように配慮してもらって
やっと働けている状態でした。

少し調子がよくなると
「イナムラさんに担当してほしい」
と言ってくださるお客様の声に応えたくなって、
キャパオーバーの担当を持つこともありました。

でも、どこかセーブしてしまうのです。

担当中に過呼吸を起こして動けなくなった時の
ことが何度もフラッシュバックして、
病気になる前のように全力で
お客様に向き合うことが怖くて
たまらなくなってしまいました。

36歳|ウエディングプランナーを引退する

復帰してから3年、
なんとかだましだましやってきましたが、
これから先のことを考えると
次のステージに進むべきだと思うように
なりました。

働いていた会場もずっと顔触れが変わらず
長く働いていることを忘れるくらいでしたが、
すこしずつ会社の体制も変わり人の入れ替わりも
激しくなってきていました。

わたしが持病を抱えていることを知らない
スタッフも増えてくると「なぜイナムラさんだけ
楽な仕事をしているんだ」と思われている
気がして、ますます居づらくなっていたのも
正直なところです。

プランナーを辞めた次のステージって?

プランナーを始めてからずっと、
わたしは文章を書き続けてきました。

ブログ、誌面広告、イベントフライヤ―、
ホームページライティング、メニュー紹介文作成、
SNS・・・

自己肯定感が低くて、自信のなさの塊だった
わたしですが、文章だけは褒めてもらえることが
多かったのです。

ホームページのリニューアルなどで
制作の方とやり取りをすることも多かったので、
WEBマーケティングを学んでライター業で
生きていきたいと考えるようになりました。

とても短絡的ですよね。

ところがどっこい、ここまでのキャリアを
ほぼ成り行き任せで築いてきた私にとって
初めてに近い転職活動は試練の連続でした。

ネガティブ思考なわたしは
「だれもわたしなんて必要としていない…」
とひどく落ち込みました。

そこに、プランナー時代の元上司が
連絡をくださったのです。

「うちのプランナーが忙しくて
ブログ書く時間がないねん。イナムラ得意やろ?
手伝ってくれへんか?」

37歳|フリーライターになる

二つ返事で「やらせてください!!」と
答えました。

またプランナー(のふりして)ブログが書ける!
人の役に立てる!
わたしの文章を認めてくれるひとがいる!!

嬉しくてたまりませんでした。

そこは自社会場を持っていないプロデュース会社
なので、とにかく想いを発信することが大切。

プランナーさんのお話を聞いたり、
発信しているものを見たり読んだりして、
そこで働くプランナーさんをじぶんに
乗り移らせて、とにかく書きました。

わたしがこれからの人生で、
人の役に立てるとしたらこの仕事かもしれない。

またプランナー時代のような自信を
取り戻しかけていたころ、
コロナがやってきました。

持病のために飲んでいる免疫抑制剤が
感染リスクを高めるため、
外に出られなくなりました。

クライアント様やブライダル業界のために
「結婚式をあきらめないで!」と必死で
発信してはいましたが、とはいえ、
この状態で結婚式開催を勧めることが
果たして正しいことなのかと思い悩み、
どんどん発信することが苦痛になって
いきました。

今思えば、ちょっとコロナ鬱にもなっていた
のだとおもいます。

ストレスで持病が悪化しやすいので、
体もどんどん動かなくなってしまい、
せっかくのブログを書くお仕事を
お休みすることになりました。

39歳|起業を決意する

ライターの仕事を休むようになってすぐ
「わたしは何がしたいんだったっけ?」
と考えました。

プランナー以外のことで、唯一褒めてもらえる
ことの多かった「文章を書く」という仕事。

文章を書くことで、わたしのだいすきな
ウエディング業界にも関わっていくことが
できていたのに、今の自分はなんだ。

いそがしくて、伝えたい想いをちゃんと
届けられないと悩んでいるプランナーや
マネージャー、支配人がいるのなら
そのひとたちの助けになりたい。

わたしが、わたしの得意分野で
プランナーさんの仕事をすくいあげることで、
プランナーさんの業務の1時間が浮き、
その分をお客様に向かわせることが
できたとしたら。

1日24時間じゃ足りない!と半泣きで
仕事をしていた、30代前半の自分をも
救うことができるんじゃないか。

それならわたしが今やるべきことは、
手を止めることじゃない。

とにかく発信して、ブライダル業界と
結婚式がすきですきでたまらない
ウエディングプランナーを救う事なんじゃ
ないのか。

それが、
わたしが起業しよう!と思った
はじまりのはじまり
のお話です。

長くなっちゃいました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

Instagramでは発信・集客に役立つコンテンツを発信しています。


この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?