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5歳男児 七五三に花柄の着物を求む

息子が5歳になったころの話。
両家にとっても初めての孫,しかも直系長男の5歳の七五三を控えていた。
神社は夫の祖母が昔から積みに積んでいるあの氏神様にお願いすることにして,さて目下衣装はどうしようか,まぁ今は色々あるでしょうから両親であるあなたたちが好きに決めなさい,お金は出すから,と両家からはありがたい丸投げをされていた。

お洋服の世界でもそうだけれども,晴れの日の衣装においても男子と女子のバリエーションの差は如実だ。電話帳のような厚さのカタログにみっちりと華やかなお着物や色とりどりのドレス,それにヘアアレンジレシピと銘打ってあれやこれやのバリエーションを展開しているのは女子。一方の男子は付録くらいの薄さで,柄は龍か虎か鶴か,色は黒か紺か緑に時々金や銀,以上,というような扱われ方で,これといった決定打がなく選びようのない選択肢を前に,何もかも決めかねていた。

こんなときには本人に希望を聞いてみるのがいい。この四六時中ウルトラマンのことしか考えていない男子にも,何か好みがあるのだろうかと少々訝しく思いながらもカタログを渡してみて,どんな衣装に惹かれるかを尋ねてみた。
渡されたカタログをペラペラめくって一通り目を通した息子は,私にそれを返すなりに簡単な感じで
お花の模様がいいね
と,きっぱりといった。

は?中身見ました?
男子の着物に花柄なんてなかったでしょうよ。何ならスーツみたいな感じでもいいんだよ?と驚いて聞くと

「スーツは幼稚園の制服みたいだから,やっぱり着物がいいよ。花柄で,黄色が好きだから黄色だな。黄色の花柄。もういい?」

呆気に取られている間に息子はさっさと話を終わらせてしまい,ポカンとした私となんの役にも立たなかったカタログだけが残った。
確かに,息子はやたら花が好きだ。公共交通機関と徒歩での登降園を指定されていた幼稚園では,必ず道端に生えている草花を一本取り,毎朝担任の先生に渡していた。帰りの時に,たまたま私の職場時代の先輩に会った時,とっさに足元に生えていたタンポポを摘み取り彼女に渡すという思いもよらない機転に驚かされたこともある。当時の彼にとっては花を渡すことは好意の表明で,幼稚園生が繰り出す技にしては高等だった。
そして,3つ歳の離れた妹がよく着ている花柄のお洋服をやたら好んでいて,それを着た妹を見ると殊の外よく褒めた。そこには少しの憧れを含んでいた。

男子だから,女子だから,ということは特にいうつもりもなかったし,そういう好みだと受け入れるつもりではいた。ただ,いかんせんどこを探しても花の模様をした黄色い男子の七五三の衣装は見つけることが出来なかった。なければ作るしかない。どこか呉服店で誂えてもらう?七五三までは半年ほどあった。好みが変わる可能性もかなりある。どうだろうか。
私が,作ってみようか。七五三の衣装を,あの時のように。
あの時,というのは軸にするにはあまりにも細い経験だけれども。


初節句の衣装を作ったこと

遡ることそこから1年ほど前の事。我が家に初めて産まれた女児,つまり息子の妹は,初節句と呼ばれる初めてのひな祭りを1歳3か月で迎えた。
この辺りでは正月祝いをしてからでないとひな祭りを祝うことが出来ず,大晦日に産まれた彼女のお正月祝いは1歳の誕生日の翌日に行われた。そのため,産まれてすぐにやってきたひな祭りは華麗にスルーされたのだ。
その頃の私はと言えば,息子の入園グッズも一通り作れるくらいのミシンの経験を持ち,何ならハンドメイドが好きになりかけていた。
せっかくのお祝いなんだからちょっと衣装でも作ってみようと思い立ち,上は甚平スタイル,下はボックスプリーツスカートの2部式構成のなんちゃって袴を作って着せてみた。
思ったよりも娘のお腹がポンポンでサイズをミスした感はあったけれども,ほぼ思い描いていた通りの仕上がりにすっかり楽しくなってしまった。

余った生地で飾りを作ってみたりして。
自宅の寝室で撮影。

夏祭りの甚平を作ったこと

これに気をよくした私は,夏に控えたお祭りで二人に着せる甚平を作ることを思い立つ。娘だけでは不公平だし,きっと二人に着せたら可愛いのでは,とすっかりその気になってしまった。

肩揚げ前の試着

和裁教室に突撃して撃沈する

なんちゃって袴と甚平を作ったという経験だけでいい気になった私は,頑張れば子ども用の祝い着も作れるのでは思い始め,近所で和裁を教えてくれるところはないかと探すことにした。知恵袋で「地域の講座で和裁を教えてくれる場合がありますよ」というアドバイスを見かけ自分の住む街で調べたところ,月に2回午前中だけやっているサークルを見つけた。これなら息子が幼稚園に通っている時間に通えるし,お月謝も良心的だった。
赤ちゃんを連れた私くらいの年齢の見学者は珍しかったらしく,どういったものを作りたいの?と聞かれたので,勢い勇んで「半年後の息子の七五三に,羽織袴を作りたくて」と申し出ると,教室の空気がさっと困惑色に染まった。ほかの生徒さんが下を向いて苦笑いをしている。どうやら最初の1年をかけて長じゅばんを作るらしく,そこから次は浴衣,そしてようやく単衣,というように進んでいくようで,袷なんて夢のまた夢だった。基礎が出来ていないと袷は袋になっちゃうから…と申し訳なさそうにそういわれてしまった。でもちょっと恥知らずねこの奥様,なぁんにも知らないのね,のような空気もビシビシ感じてしまい,人見知りの激しい娘もグズグズしてしまったので「ありがとうございました」と言って逃げるようにその場から離れた。
正直,袷が袋になる,という言葉が何を意味するのか全く分からなかったけれど,長じゅばんに1年もかけていたら七五三が終わってしまう。ここでお教室は諦め,何とか自分で作る方法を模索することになった。

素材は義実家から調達する

子ども用の着物を作るための本を手に入れ,さてまずはさらしを使って肌襦袢を作ってみた。甚平の復習のようなものだ。見えないところなのでミシンを使い,仕上がりを重視した。手縫いはあまり得意ではない。

さて,本を見ていると実は子ども用の着物とはいえ,意外と生地を使うことが分かってきた。ただ,始めから成功するとも限らないし,練習をしたほうがいいかもしれない。義実家に事情を説明し,いらない着物を練習用にしたいのだということを話すと姑が笑いながら「いくらでもあるわよ」と招き入れてくれた。
モノを大切にする姑とは思っていたけれども,本当にいくらでもあった。もう大姑も体の自由が利かないし,着物を着ていくところもない。買取にとは考えていたけれどもおそらく二束三文だし,でも捨てちゃうのもね,と思っていたらしく,私の申し入れは渡りに舟だったらしい。
十把一絡げ,のような感じで大風呂敷にあれやこれや詰め込まれた着物や帯たちを車のトランクに載せ,自宅に戻った。

年代物の着物は,想像以上に地味だった。姑が成人式に着たという振袖は白地に梅の模様がシックでとても素敵で,勿体なさ過ぎて息子の5歳の七五三には転用できなかったが,若い人向けの着物はそれくらいだったことが誤算だった。
リサイクルショップなども回ってみて,でも黄色の花柄に手を出すことは出来ず,ギリギリアースカラーの花模様を見つけてみたりしてコーディネートしてみたが,これというものが決め手がなかった。

ああでもない,こうでもない,とやっていると息子がやってきた。
私の隣に座り,大量の着物を手にしているあいだに思いもよらず大姑のラインナップから気に入ったものを見つけ出してきた。
単衣の着物には,おめでたい感じの地模様が入った,青海波のものを。
羽織には,家紋が入った黒い羽織をそれぞれ選んで,これがいい,と申告があった。家紋は毎年出している兜の背景にかかっているものと同じだということに気が付いて,これがうちのマークならこれがいいに決まってるじゃん,と喜んだ。黄色の花柄は本人から却下された。お花は,女の子が好きだからね,と何か心境の変化があったらしい。

完成した単衣

確かに初めて袷のものを作っていると,和裁教室でいわれた「袋になる」という現象が分かったような気がした。表地と裏地の寸法を間違うと色々なところに影響が出て辻褄が合わなくなってしまうのだ。これもどこかヨレヨレになってしまったが,仕方がないと思うことにした。裏地には夫も会ったことがないという大舅が遺した生地を使った。

ちなみに,袖口には当時大好きだったウルトラマンの生地を使った。表からは見えない,分かる人にしか分からない場所だ。

袴だけは,市販のものを購入することにした。手持ちのもので間に合わせようとすると,本人の若さをもってしても,どうしても地味な感じが抜けなかったこと,そして袴には七五三に必要な小物が付随してくるのは何よりも魅力だった。
いくつか色があり,ここは本人に決めさせた。もちろん選んだのは金だった。

袴に付いてきた草履には,少しでもオリジナル感を出してやりたかったので,ここでもウルトラマンの力を借りることにする。

5歳のお支度,完成する

結局は,最初に本人が希望した「黄色で,花柄」という着物にはならなかったものの,義実家で長く眠っていた着物たちを再度よみがえらせる形で息子の5歳のお支度が完成した。

大姑がかつて子どもたちの入学式・卒業式をはじめ,学校行事で多用していたという羽織がまたこのような形で家族の節目に立ち会うことが出来たことに,私は少しジンとしてしまった。モノにも心があると考えてしまう癖がある。また日の目を見せてやれて良かった。
着付けも自宅でしたので,特に写真館で型物写真を撮ることはしなかった。その代わりにご祈祷をした現地の神社で出張カメラマンと落ちあい,家族写真を沢山撮ってもらったのも思い出だ。息子も,何年もたっているが「七五三は楽しかった」と言ってくれている。

我が家の七五三,その後

息子の5歳を皮切りに,翌年の娘の3歳,その後の7歳も結局はすべて私が支度を整えることになった。特に7歳の記録は初めてのnoteに記載した通りで,反物を染めるところから始めている。

我が家の七五三はもうすっかり終わってしまったが,子育ての大事な通過点として,そして楽しかった思い出として家族の記憶に残っている。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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