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「ONE PIECE FILM RED」の存在から、ONE PIECEを愛す心を守りたい

漫画大国においてそれはほんの僅かであるが、これまでに様々な漫画を読んできた。中には、読み始めたが性に合わず読み進められなかったものもあるが、惹かれた作品は一話から最終あるいは最新話まで読み、隅々まで貪ってきた。そんな自分にとって特別になった作品のほとんどがファンタジーである。

ファンタジーはすごい。現世を土台に構築されており、現世での知識常識を持つ我々にも理解し易い造りでありながら、まるで異なる一つの常識を生成されている。我々はその世界のルールを学び、人物らの人格を知っていくことでその世界に浸れる。その上で、登場人物らの状況や心理を噛み砕き、恰も自身や傍での出来事かのように真摯に向き合う。世界の辻褄が見事に合っていないとこうはなれない為、しっかり構築されている作品は安心して身を委ねられる。

本題に移る。2年ほど前に「ONE PIECE」を一から読み始めた。昔、所謂イーストブルー編辺りまではテレビアニメで観た記憶が微かにあったが、今一度アニメと原作で冒頭から読むことにした。今現在は週刊の最新話まで追いつけている。この長い作品を飽きずに読めたのは前述した通り、世界の構築がしっかりなされているからだ。山のような人物らそれぞれにも、丁寧な人格が宿されていることも多大なる要素だ。

一読後何度か読み返した場面もあるが、この世界全てがしっかり頭に叩き込まれているかというと、決してそうではない。他のファンタジーにも言えることだが、作中の専門用語の意味などその場面の空気でおおよそ理解したつもりではいるのだが、テストのように設問されるときっとうまく答えられない。人物についてもそうだ。誰と誰は面識がある、誰とは犬猿の仲なのかなど、全ては記憶にない。それでも作品は面白く感じるし、楽しめている。
そもそも現世だってそうだ。恥ずかしながら自身は大した知識人ではなく、歴史も地理も時事もよく知らず理解していないことばかりだ。しかし、確実な事実は存在している。この現世は今日も数十億の視点で見届けられており、歴史という過去にも無限ほどの事実が存在する。上下左右到底見渡しきれない世界が広がっているのだ。作品も自分の手にあまる見渡し切れない壮大さを思うと、まるで実在するかのような空間を感じる。

ついでに少々脱線する。昨今ここまでネットが進み情報をいつでも好きなだけ得られる状況になったが、おそらく人間のキャパシティはそれ以前から変わらないのだろう。誤った記憶で作品を語ると、正しい知識で叩く者が現れる。つまらない。発言者にはその点において、正しいものより別の点のインパクトが強く感じられ、記憶に残らなかっただけだろう。頼りない記憶だけでの会話も楽しかろう。以下、誤った記憶での記述の可能性があるが、お手柔らかに見て欲しい。

昨年、「ONE PIECE」アニメ1000話放送終了時に発表された「ONE PIECE FILM RED」。五線、シャンクス、後にウタと発表される女性のネーム。乏しいこれだけの宣伝映像は洒落ていたが、シャンクスが描かれることに不安を感じた。

「ONE PIECE」の映画作品は今までのものも観たことがないし、観るつもりもない。今回の映画は原作を追って楽しんでいる者が観るべきなのだろうか。映画を観ないと支障が出るなんてこと、あるだろうか。原作が映画になるわけでもなさそうだ。いろいろな不安を考えた。

原作を追う限り、シャンクスは未だに謎多き人物だ。彼はどうして強いのかわからない。物語冒頭で主人公を海に入って助けることができたことを思うと、少なくともあの時点では能力者ではないと思える。その後実を食べたのか不明であるし、海で泳げるか否かの描写もない。能力者でない可能性は大いにある。強いキャラはほとんど能力者であるこの世界線で、この点は非常に気になる。
とすると、腰に携えた剣、近海の主やモビーデックで見せた覇気、これくらいしか彼の戦闘能力は伺えない。はたまた、悪魔の実自体にまだ謎がありそれが関わるのか。

今回の映画登場人物に、ルフィは当然シャンクスも出るわけだ。二人は、シャンクスが少年ルフィに帽子を預けた時から一度も再会していない。頂上戦争時や、つい最近ワノ国にてニアミスしているが、会っていないのだ。
また、ウソップとヤソップの再会も注目すべき点となるはずだ。ウソップもまた、少年時以来父に会っていない。ウソップは父を誇りに思っていたので、再会はきっと嬉しいのだろう。しかしヤソップは妻の死を知っているのだろうか。ウソップはそれを父にどう伝えるだろうか。
このように、一味と赤髪海賊団が接触することは一大事件なのだ。

しかし更に厄介なのは、此度の主役はウタという新キャラ。映画初発表時のシルエットは、彼女の長い髪がエネルのような耳たぶに見え、空島関係の話かとミスリードした。一大事件を差し置いて出張る彼女に、情を抱ける自信がない。

後付けキャラ。原作ではサボにとてもそれを感じる。とはいえ、彼の存在の出し方や、彼自身の登場の仕方は大変興味を持たされた。エースは助かると信じて疑わずに読んでいたマリンフォード編。彼が死んでいく様は、動揺して最期の言葉を耳で齧り縋り付くように聞いた。その中にサボという名前が初登場するのだから、こちらは輪をかけて動揺した。残り僅かの命、このタイミングでエースが口にすることで、未だ素性も姿も見ぬサボの存在は大変大きなものになった。
後々この辺りを読み返した際気づいたが、サボの名が出るより前に出る回想コマの盃が、よく見ると3つ目がほんの少し見切れて存在していた。この時点で何か察するチャンスが与えられていたことにも関わらず、まんまと素通りし後に罠に掛かった事に気づかされる技法は、漫画作品ならではと思う。その後ドレスローザで登場した彼がメラメラを食すことになるが、この展開が華麗で少しセンチさもあり絶妙であった。
故に、後付け感が透け見えているサボに関しては、非の感情はない。今回サボについて特記したが、原作の他のキャラ達も非を思う者はない。

ウタはどうあがいても、後付けであることは明白である。嫌でもこの数ヶ月、そして今日もまだ続く「FILM RED」の宣伝から得られる彼女のプロフィール。ルフィの幼馴染であり、シャンクスの娘で、世界の人気歌姫。彼女の存在だけでも違和感でしかない映画で何が描かれているのか恐ろしい。彼女の持ち歌とされる7曲はきっと、劇中でも存在強く長尺で流されることだろう。その曲たちは名アーティスト方が提供し、歌は某女性歌手が担当する。その曲たちは当然円盤になり、配信される。音楽で売ろうとしているのが明白で、ストーリーに本当に力が込められているのか不審になる。

映画にはジンベエも一味として出るようだ。ビッグマム海賊団も出る。原作ではワノ国途中でジンベエが正式に一味になり、その後ビッグマムはローとキッドに沈められる。今現在の最新話ではそんなワノ国が終わり、一味が再び海へ出た瞬間なのだ。
これだけの情報でも思うことは、映画の時間軸は完全なるパラレルワールド、またはONE PIECEを題材にオマージュした世界、なるのだろう。とすると、映画を原作に混ぜて伏線だのと考えるのはただの考えすぎで終わることになる。
どのような心積もりで映画に向き合うべきか、世界線を宣伝時に注記して欲しいなどという我儘な気持ちが芽生えた。

興行収入、だっただろうか。「千と千尋の神隠し」や「鬼滅の刃 無限列車編」を超えたそうだが、こういった数字の成績は作品の良し悪しに決して比例しない。期間ごとに代わる来場者特典など、CDに握手券が付けられる件と同等に思う。

観ないという選択肢は目立ちにくいが、観るという選択肢と同等に位置している。自分の中の「ONE PIECE」を大切に守りたいならば、自分は間違いなく前者を選ぶ。

原作者が産んだもの、公式が世に放ったとされるもの。これらが正義とは決して限らない。よくあるノベライズの存在も嫌いだ。こちらに行間を読む自由を与えて欲しい。「ONE PIECE」で言えば例えば、人気キャラのローやエース。原作では描かれていない、彼らが海賊団を持てた経緯など明確でない魅力がある。もしかしてこんな苦労をしたのではないか、さまざまな地域をこんなふうに闊歩したんじゃないだろうかなど、答えのないものを考えで彷徨うことはとても楽しい。作品が完結したもののその後を想うことも同様だ。今も元気にしているだろうかなど、愛着を持てた作品キャラなら尚更だ。「NARUTO」のその後だって明確にして欲しくないというのが本音だ。

存在しないものは儚げで素晴らしい。音楽においての休符のように、存在主張は無くとも必須のものなのだ。隙間なく喧しいほどに、節操ない様々な手法で世界を埋め尽くされるのは息苦しい、世界から抜け出したくもなる。

「ONE PIECE」は自分にとって特別な作品の一つとなった。それは「ONE PIECE」の映画やノベライズ等の影響では全くない。漫画原作とそれになぞられたテレビアニメの魅力だ。原作が完結するまで、しかと見届けたい。それまでに「FILM RED」を含む休符を潰すものたちは現れるのだろう。それを全て、信者の如く称賛する滑稽な声も多々耳に届いてしまうのだろうが、耳を逸らし横目に流し確固たる自分の中の「ONE PIECE」を守り抜きたい。

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