生権力について
新自由主義経済というのは、社会全体を市場化してしまうことで、
個人の内面も市場で統治してしまう。
「あーあ競争ばっかだな」
「お金を稼げた人が偉いんだな」
と、漠然と心配している時点で、
すでに心理的には市場に支配されてしまっている。
一方で、じゃあ、そういうのは弱肉強食でしんどいから、
そういうものから脱していこうと、
脱世間、脱社会を言い出して山奥に引きこもったり、
独自の教育論や社会論を展開して、
「世の中は間違ってるから、もっと丁寧なくらしをしよう」
とか、
新しい生き方を提示するという方法があるのだけれど、
これはこれで実はヤヴァイのではないだろうか。
20世紀の哲学者ミシェルフーコーは
「人の生に積極的に介入する権力」
のことを
「生権力」
と言ったそうだが、
一見、脱権力的なやり方を提示して、
他人の人生を横道にそれさせようとする力。
農業でも教育でも、そういうのは非常に多く見受けられる。
(オーガニック、スピリチュアル、自然、非認知能力などなど)
これが実は生権力そのものであり、
1990年代にあったオウム真理教事件などのカルト問題に懲りた日本社会が、もし次の問題で蝕まれているとしたら、
この「生権力」に深く関わっているだろう。
最初に書いたように、
私たちはすでに新自由主義にも十分蝕まれているので、
うっかりとこの問題を見落としてしまいそうになる。
しかし「生権力」とはあくまで「人を殺さない」方向に働くので、
悩みがある人にとって、良い顔をしてやってくる。
「宗教」にもいるだろう。
「」カッコをつけたのはもちろん、
それは宗教ではないからに決まってる。
親鸞や釈迦やキリストを所有化し、経済価値をつけて「セミナー」「セッション」などと売り物にした集金ビジネスであり、
生権力そのものであり、宗教ではない。
なんであれ「生権力」はさまざまな日常の付加価値に潜んでいて、
それに支配されないことは不可能である。
新自由主義が可視化、問題化されやすいのに対して、
生権力というのは問題になりにくい。
かくいう私も脱世俗している風でいて
無農薬野菜を売り、こども合宿をやり、
絵を描いているあたり、自戒をこめなくてはいけないと思ってる。
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