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「シアタートラム」という劇場のこと

今年シアタートラムで「う蝕」と「メディスン」というふたつの公演を観たので、忘れないうちにこの2公演の相違点と共通点について書いてみようと思います。
今回は劇場オタクみたいなnoteなので、あんまり推しの話とかは出てこないと思います。
念のため。

絶妙なキャパシティ

シアタートラムの座席数は最大で248席。
「メディスン」は200席くらいだったのかな。
「う蝕」も同じくらいだったと思います。
この座席数は絶妙だなぁと思いました。
演じる側の経験はないに等しいので観客側の視点からしか書けませんが、観る側にとっても知らない他の観客と一体になれるキャパシティだと思います。

う蝕

公演の概要は↓をお読みください。

あるとき、コノ島を襲った自然災害「う蝕」。
犠牲者の身元確認のために集められた歯科医師が土砂を掘り起こす土木作業員を待っている。そしてそこに現れた謎の男。
彼らはいつまた起こるかわからない「う蝕」を恐れながら、この災害のことを考えていきます。

劇場全体が「コノ島」

創作のモチーフのひとつになったのが、劇作家別役実の不条理劇ということで、「コノ島」というネーミングや島の地図(パンフレットに示されていました)は別役エッセンスが色濃く出ていました。
舞台装置はう蝕が襲ったあとの「コノ島」なので、混沌としています。
そして、芝居が進むと少しずつ少しずつ客席にいるわたし達の足元にも「う蝕」が進行してくるような錯覚に囚われていきます。
ここまではおそらく演出側も意図していたのでは、と思います。

この公演で、さらに観ている者を混乱に陥れたのは、開幕を目前にして起こった能登半島沖地震でした。
地震を受け、上演の可否も含めて議論され、結果内容を少し変更しての上演となったそうですが、やはり観ているわたし達も、あの凄まじい災害と、今目の前で繰り広げられている芝居とが入り混じってしまうことは否めませんでした。
これは当然演出の意図とは違うだろうと思いますが、事実としてこうなってしまったことはあると思います。

いずれにしても、「う蝕」は舞台と客席、演者と観客が少しずつじわじわと、まさにう蝕に侵されていくように混じり合っていき、だからこそ最後に板東龍汰くん演じる木頭に寄り添い、わたし達観客自身もう蝕に襲われた名もなき他の「木頭」として、この災害に(そして現実に起きた災害についても)向き合うことになるのです。

(ちなみに「う蝕」の戯曲は「悲劇喜劇」2024年3月号に掲載されています。)

メディスン

次は、2024年6月現在上演中の「メディスン」についてです。
まさに今日、東京公演の千穐楽を迎えました。
公演概要は↓です。

「う蝕」では微妙に場面転換がありましたが、「メディスン」はワンシチュエーションです。
場面転換はなく、観客は(おそらく)病院(か施設)の中のある部屋を傍観するという立場で、繰り広げられる物語に触れていくことになります。

観客は完全に「傍観者」

「メディスン」で徹底されていたのは、舞台と客席の間に見えない壁を存在させていたことです。
それは、決して中には入れない壁でした。
わたし達観客は壁の外側にいて、内側で行われているジョン・ケインという人物に対する「治療」(わたしはこれが「メディスン」だと思いました。)を完全に傍観する立場を与えられているのです。

そこで繰り広げられていることが、果たして本当の意味での「メディスン(治療)」なのかは分かりません。
ただ、とにかくジョン・ケインが巻き込まれていく(あるいは「巻き込んで」いる)ことに対して、観客側は一切触れていくことができないのです。

作者の「意図」

作者のエンダ・ウォルシュ氏は「世の中にはこういう(ジョンのような)人がいると知ってほしい」と話していたそうです。
その言葉通り、わたし達は痛いくらいにジョン・ケインの辛さを知ります。
たぶん多くの人が彼に寄り添いたいと思いながら、固唾を飲んで彼を見つめていたと思います。
ウォルシュ氏がこの作品に込めた思いは、観客に十分伝わっていたとわたしは思います。

けれども、観ているわたし達は誰ひとりとしてジョンの心に寄り添うことができないのです。
なぜなら、ジョンの物語は「壁の向こう側で起こっていること」だからです。

これはわたしの解釈なので間違っているかもしれませんが、ウォルシュ氏は観客を傍観する側に置きジョンには決して寄り添えないと突き放すことで、世の中から突き放されてきたジョン・ケインの痛みを逆説的に体験させようとしたのではないかと思うのです。
メアリー2の理不尽すぎる(と感じる)振る舞いにストップをかけたくなる気持ちを持ちながら、観ているわたし達は誰ひとりジョンを救うことはできないし、ジョンになることもできない。
ジョンが抱いていた「孤独」はこういうことなんだと、そうウォルシュ氏は言いたかったのではないでしょうか。
だから、その辛いジョンの姿を「見ている」ことしかできないわたし達は、半ば絶望にも近い思いに苛まれるのです。
(何度も言いますがこれはわたしの解釈です。)

「主観」と「客観」

「う蝕」では、観ているうちに観客である自分も木頭となり、突然襲いかかったう蝕に対して彼が感じていた思いに共鳴しました。
つまりいつの間にか「主観」で観ていたことになります。

「メディスン」では、起きている出来事への衝撃は大きいものの、すべては自分がいるところでないどこか別の場所で起こっている(起こっていた)物語だと知り、その「客観」性に胸が痛くなってしまいます。

同じ劇場で創られている舞台なのに、ここまで異なる印象が与えられることに気づいて、わたしは「演劇」の面白さ奥深さに改めて感動を覚えました。

「シアタートラム」の魔法

そして、異なる印象を与えながらもここまで臨場感を持って物語世界に没頭できることこそが、「シアタートラム」という劇場の魔法であり、ここで上演されるすべての演目に共通することなのではないかと、ぼんやりと思ったりしているのです。

これから、できることなら年に1回くらいシアタートラムで上演される演劇を観に行きたいと思いました。
そして、今回気がついたことが他の演目でも同じように、また全然違って感じるものなのかを体感してみたいと思います。

オタクの戯言にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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