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猿若江戸の初櫓

2024年2月「十八世中村勘三郎十三回忌追善猿若祭二月大歌舞伎」夜の部


「江戸の歌舞伎ってこうやって始まったんだよ!」
「芝居小屋も作っちゃうよ!見てて!」


という感じの、賑やかで明るい演目。

猿若って?

「猿若」は、人の名前でもあり、芝居小屋の名前でもあり、狂言のタイトルでもあり、役どころの呼び名でもある。それほど特別・大切なもの、ということかな。

⚫︎人の名前
 江戸歌舞伎役者の初世「猿若勘三郎」つまり、中村勘三郎のこと。
⚫︎芝居小屋の名前
 寛永元年(1624年)に、初世勘三郎が今の東京・京橋付近に作ったのが「猿若座」。のちに中村座。
⚫︎狂言のタイトル
 寿狂言「猿若」は、江戸歌舞伎発祥100年祭な12世勘三郎襲名などの、特別なとき・節目で上演されていた。
⚫︎役どころの名前
 初期の女歌舞伎での道化役のこと。芝居上の進行役でもある。

「猿若祭」は、江戸歌舞伎の始まりを記念して、17世勘三郎が昭和51年(1976年)に第一回を開催。2024年は、猿若座ができてから400年の節目

猿若江戸の初櫓って?

寿狂言の「猿若」をベースに生まれた舞踊劇で、江戸に猿若座(のちの中村座)ができるいきさつの話。

⚫︎登場人物
 猿若
 出雲阿国:歌舞伎の始まり、歌舞伎踊りを始めた女性
 福富屋の夫婦:京橋の材木商
 板倉勝重:京橋付近を仕切っている奉行

⚫︎あらすじ
 猿若と阿国が、道ばたで困っている福富屋夫婦と出会う。聞けば、江戸城に献上する品を載せた荷車を引けずに困っていると言う。そこで猿若は、一座の仲間と一緒に荷車を引く。

それを見ていた奉行が、褒美として芝居小屋(猿若座)開設をOKして、福富屋には古屋の建築材料の調達を任せ、みんなハッピー。

⚫︎豆知識
猿若が先頭に立って荷車を引くとき、みんなの息を合わせてうまく引けるよう、掛け声・音頭をとる。綱引きのオーエス、オーエス、みたいに。
これは、実際の初世勘三郎のエピソードへのオマージュ。幕府の軍艦・安宅丸(あたけまる)を入港させるときに、船を漕ぐ人たちの息が合わなくて困っていたところ、勘三郎が音頭をとって、みんなの息が合い、無事、入港成功。このときの幕府から褒美が、船の覆いとして使われていた幕。その幕をのデザインをベースにして、中村座の定式幕(柿・白・黒)が考案された。

中村座の定式幕@歌舞伎座

こうして調べてみると、18世勘三郎は、とても猿若らしい勘三郎だったんだなと思う。勘九郎は、勘三郎が亡くなってからの襲名披露口上で「父のことを忘れないでください」と言ったけれど、忘れるなんて、とてもできそうにない。

特にファンだったわけでもないのに、勘三郎がいないことが、いまだにさみしい。あの、にこやかな写真を目にするだけで、籠釣瓶や夏祭浪花鑑を見るだけで、なんだか泣きそうになる。

のちに後を追うようにして亡くなった三津五郎が弔辞で
「肉体の芸術はつらいね。死んだらあとには何も残らないんだものな」
と言ったけれど、そう、勘三郎が舞台に立つことで生まれた空気・空間はもうない。彼の面影や名残は、勘九郎やほかの役者さんから感じられるけど、わたしはどうしても、勘三郎の舞台が恋しい。

<追記>
この三津五郎の言葉は、平安末期に記された言葉とつながる。

声わざの悲しきことは、我が身隠れぬるのち、とどまることのなきなり。

平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』口伝集巻十第

さらにこう続く。

その故に、亡からむ跡に人見よとて、いまだ世になき今様の口伝を作りおくところなり。

平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』の口伝集巻十第

映像だけではなく、舞台を見た人の声を残していくことで、その舞台の空気を少しでも残せるのかもしれない。

<参考文献>
・平成29年2月「猿若祭二月大歌舞伎」の筋書き
名作歌舞伎全集第十八巻
歌舞伎 on the web
文化庁デジタルライブラリー
・ジャパンナレッジで見られる事典類
・『芝居見たまま 明治篇 一』


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