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直接経験と二次的な経験における2つの声

昨日、私たちの直接経験(根源的な経験)と二次的な経験の分量が、大人になるにつれて逆転していくことについて書きました。書いた後に感じたことがあったので、表現を変えて、もう少しそれについて書いてみます。

今朝、目覚めたときに、もしかすると、私は常に、ある声を聞いていないだろうか、とふと感じたんです。そして、その声の主からよく思われるために、わたしはどういう言動をすればいいか、そこを考えながら、自分の考え方や行動を形作っているところがあるかもしれないと。

今までは、この声を受動的に聞いていると思っていたんです。ただ聞き流すだけ。でも、そうではなくて、能動的、積極的に聞いているようなんです。聞いて、それに従うという。

じゃ、その声って誰の声なのか?

その声は、自分の声ではなさそう? 誰か実在する特定の人の声でもない。もしかすると、母の意見が入っているかもしれないなあ。わたしはいつも、その声にアンテナをはって、敏感になっているかもしれない。

そして、ある出来事を思いだしました。小学4年生ぐらいのときに環境についての作文コンクールのために、作文を書いたことがありました。その時、こういう内容の文章を書けば、いい評価がもらいやすいよね、というような、自分の中に、二重の基準みたいなものがあったなあということを。悪気はないんですけど、そうした方が、いろんなことがうまく行くような、そんな気持ちがあった様な気がします。今思うと、わたしが確かに書いたんですけど、書いた内容は本当にわたしが感じていたこととはちょっとズレていたんじゃないかということです。でもそう書いた方が褒められたり、賞をもらったりする。

その頃から、声を聞き始めるようになったのかもしれません。そして、生まれながらにある本来の声は次第に閉ざされて、聞こえづらくなっていったのかもしれません。

これはわたしの勝手な体感なのですが、私の場合、右耳の上の方から、その声は聞こえてくるような気がします。

この声って、おそらくですが、エックハルト・トール(Eckhart Tolle)のいう、エゴの声だと思うのです。マインドが作り出している声です。エックハルト・トールが voice in the head と呼んでいるものですね。

エックハルト・トールのこの話は理解していると思っていたのですが、今回わかったことは、わたしはその声を聞いて、それに従おうとしているということです。自分で作り出した声に従うということは、行動まで規定されるんだということに気がつきました。ある意味、社会性をもてるようになるために。

この巧妙なカラクリ。そりゃあ〜、気づきにくいよなあって。自分で自分を縛るとは、まさにこのことですね。

これに対して、もう一つの声があります。わたしの身体の下のほうから上がってくる声。イメージとしてはおなかのあたりなんですけど、その声は直接届く。ああ、これかあ〜って。直観ですね。

この直感を受け取るのに、わたしはいないんですね。身体は使うんですけど、わたしはいない。この身体が媒体になって、わたしに届けてくれる。そしてわたしは感じる。なんて直接的で速いんだろう!

それに対して、あのささやき声は、なんとまどろっこしいのだろう!

ああ、わたしはこれをずっとクセでやってたなってことがわかりました。こねくり回してる。だから遅い。

ダイレクトの方が速いし、より信用できる。この声とつながって生きていきたいなあと。


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