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浦島太郎の夢をみた話 2 〜ああ わたしは玉手箱を開けてしまったんだ

『哲学、脳を揺さぶる』という著書の中で「過去をカッコに入れるための装置、それが玉手箱だったことになる」と河本秀夫さんは書いています。

過去をカッコに入れるというのは、現象学的還元の考え方に通じるものであり、今日一日の区切りで生きるとか、一日一生とかいう表現と同じことを意味しているように思います。

私たちはどうしても、自分を継続させてしまいます。これに対して、一日一生、過去を断ち切るという考え方、すなわち太陽は沈んで、翌日また新たな太陽が生まれ変わってくる。このような考えはどうしてもできにくいものです。私たちは間違ったもの、重たいものを(思考・感情などとして)後生大事に持ち続けており、そこに利息をつけて、日々苦しくなっていることがあります。上に紹介した著書の中で、河本秀夫さんは、次のように記述しています。

ついつい過去に生きてしまうほどの思い出をもつ人は、リスタートやリセットのためのなんらかの区切りを必要とする。誰であれ、過去を全て捨て去ることはできない。しかし、リスタートするためには、カッコに入れてしまわなければならない過去がある。比類なく楽しかった日々もそうである。玉手箱は、過去をカッコ入れするための善意の道具立てだったと考えることができる。だが多くの場合、再出発は実行されず、ひとたびしまい込んだ洋服を取り出すように、その箱を開けてしまうのである。・・・ 人間の本性上それを開けてしまうのである。そして、そのことを百も承知で、乙姫は開けてはいけないお土産を渡すのである。過去をカッコに入れるための装置、それが玉手箱だったことになる。

過去をカッコ入れするための必要な条件としての玉手箱というわけです。しかしながら、過去に生きてしまう者にとって、これを開けないというのは実に難しいことです。私たちはどうしても「みんなそうしてるし」とか「そんなことは社会的に許されないことだから」という思いのほうが勝ってしまうからです。そして、自分が考えていることなんか大したことがないとして、自分の中に秘めてある宝物を、軽んじてしまう傾向があります。

ああ、わたしは玉手箱を開けてしまったんだ、という重苦しい思い・・・。

河本秀夫さんは、最近、この物語の解釈を変えてみたとして、次のように続けています。

封印しなければならないほどの過去の楽しさであれば、竜宮城の楽しさが本当は質の低い楽しさだったのではないかという思いがあるのである。あの楽しかった日々は、やはりどこか偽装されたもの、偽りのものではなかったのかと思えてくる。日常の余り部分としての余暇ではなく、本当に楽しい日々であれば、楽しさのなかになにかを発見するものである。ただ楽しいというのは、偽りの楽しさにすぎないのかもしれない。そのため玉手箱のような封印が必要なのである。そうだとするとあの玉手箱の意義は、偽りの楽しさの代償である。

竜宮城での日々が、偽りの楽しさであったとすれば、リアリティはどこにあるのか。

不本意にも、玉手箱を開けてしまったら、そこで潔く反省をして、そこからリアリティを見出していくことそのものが、人生の課題であるように思います。「私が間違っていた」と一旦自分を突き詰めることができたら、そこでおしまいになって、後は上昇していくしかないのだと思います。そしてそこから、人は変わることができるし、よくなることができるように思うのです。




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