ラマナ・マハルシの言葉から
心が大いなる存在のうちにとどまっているときには、すべての思考の元である私はいなくなり、本当のわたしが輝く。でも、現実はそうなってない、心は、頭脳や感覚器官をとおして、大いなる存在の外へ出たがる。
心が外へ出ると、世界が現れる。
心が外に出てゆくとき、悲惨を味わう。世界が現れると、悲惨の中を行く。
この身体に私として立ち現れているものが、心(マインド)である。
常にさまよいつづける心。
私という思いが、心の最初の思いであり、それがエゴ性である。エゴ性が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれでくる。したがって、心が静かになれば呼吸も静かになり、呼吸が静かになれば、心も静かになる。
本当のわたし、大いなる存在は、私という思考がないところにあるもの。それは、沈黙と呼ばれている
自己を知ろうとする者は、悟りを願う者は、自己を覆い隠しているすべてのものをぬぐい去ることである。
自己は、五つの覆い(五感)をはぎ取ることによって探求されるべきものだから、書物の中に求めることの愚かさは言うまでもない。やがて、彼が勉強したすべてのことを、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。
無欲とは、心がどのような対象物に向かうことも差しひかえることである。智慧とは対象物が現れないことを意味している。自己を決して離れないことが智慧、無執着である。
そこには世界はなく、そして私もいない。
このことを知りつつ、私を生きる。
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