Twitterやnoteに臨む私の姿勢

Twitterでもnoteでも、私は基本的に、「それなりにきちんとしながらも、ほどほどに力の抜けている文章」を書くように努めている。(「それなりに」「きちんと」「ほどほどに」のどれも全て主観的・抽象的ではあるが……。)

理由は、私自身がそういう文章を読みたいからだ。

そもそも私がTwitterやnoteに登録しているのは、余暇の楽しみとして、興味関心のある事柄に関連する情報を収集するためだ。興味のあることについて最新の情報がないかを確認したり、自分の興味のある分野について誰かの書いた長めの記事を読んだりして、息抜きをすることが目的だ。

しかし、息抜きをしようと見ているうちに、本来求めていたものではない、世の中の解決困難な問題についての話題や、誰かの激しい怒りや深い悲しみに、思いがけず触れてしまうことも、時にはある。

私がTwitterやnoteを趣味や娯楽のために使っている一方で、それらを自分の思想や信念を伝える目的で、自己表現と情報発信の手段として使う人たちもいるのだ。

しかし私は、それらのアカウントからの発信を見てしまうのが、正直に言うと苦手だ。念のため断っておくが、発信者や発信の内容が嫌いだとか、誤っているとか、不適切だとか、そういうことを感じているのではない。

私は元々、知ったところで自分にはどうにもできない事実を目の当たりにすると、どうしようもなく辛くなってしまうたちなのだ。それに、たとえ自分に向けられていないものであったとしても、誰かの激しい言葉や態度に触れると、その人をそこまで突き動かすほどの怒りや憎悪がどれほどであるかを想像してしまい、これもまた辛い気持ちになる原因となってしまう。

ゆえに、Twitterやnoteにおいて私は、読み手としての自分が苦手な発信に対しては、色々な策(お察しあれ)を講じて、なるべく出くわさないようにしている。明らかに「選り好み」の一種ではあるが、義務でやっているわけではないのだから、自己責任の範囲でなら自分好みに加減してもいいと考えている。

一方で書き手としての私は、冒頭でも述べたように自分自身も肩の力を抜けるような文章を書きたいと思っている。それに、自分が書いた文章によって、自分がされたくないことを他人にしてしまわないように心がけている。

さて、この文章は、どのような感想をあなたに抱かせるものだっただろうか。そして、私の書くときの姿勢は伝わっただろうか。


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