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置かれた場所で咲く

「置かれた場所で咲きなさい」って別に今の環境を我慢して耐えてそこで何かを成し遂げろって言ってるんじゃなくて「ないものねだりをするな」って意味だと思っている。周りの環境に対してではなくて自分の中に対して。

私がいくらピカソのような画家になりたいと努力してもピカソにはなれない。大谷翔平のようなプロ野球選手になりたいと思ってもそうはなれない。私がどんなに努力したところで他の人にはなれない。私なりの私にしかなれない。

置かれた場所で咲きなさいはそういうことだと思う。

私はないものねだりで「変わりたい」と思い続けた。コミュニケーション能力を身に付けたいと思ったりグラフィックなんちゃらになりたいと思ったり...結局、その世界は私にとって苦しいだけだった。

ないものを得ることができる人もたくさんいると思う。でも、それはないものではなくてあったものを努力で伸ばしただけ。
私はないものを欲しがり続けた。だから、苦しかった。ずっと。

私が100回やっても誰にも見向きもされないことでも、たったの40回で人の目に留まる人だっている。人と比べるなと言われても、楽しくてやっていても、それは苦しみに変わる。"置かれた場所"ではないんだということ。

私の"置かれた場所"には何もなかった。それはそれでだだっ広くて(広くもないかもしれないけど)いいんじゃないか、と思うことにした。
変わろうとすること、手に入れようとすることは苦しかった。

何もないなら何もない場所で咲くことを考える。この何もない場所で咲こうとすることを考えたこともなかった。そもそも咲かなきゃいけないのかってことでもある。咲かなくったっていいんだし。

小学校の卒業式の時に私に贈ってくれた担任の言葉「あなたは道端に咲く雑草の花のようだ」
小学生の私には侮辱にしか聞こえなかった。今も少しそう思う。卒業式に個人的に贈る言葉としてはどうかと思うわ。所詮、私は雑草です。

私の置かれた何もないこの場所で、咲ければ、小さく咲くことにするか...

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