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めぐりあわせ 中世装飾写本 内藤コレクション展

「写本 いとも優雅なる中世の小宇宙」
於:国立西洋美術

私にとって、とても大切な何かである中世装飾写本の企画展示が上野でスタートしたので、その謎を解明すべく、またその喜びに浸るべく、待ち臨んで会期早々にそそくさと行って参りました👐

このコレクションは個人コレクターの内藤氏が30年かけてほとんど憑かれるようにして蒐集してきたものを、2015年に、当時の留学先のアメリカで見た「寄贈によって成長を続け躍動する美術館と、生きた証しがそれによって残るコレクターの姿が記憶にあったから」という思いから国立西洋美術館に寄贈をされたものの一同初公開という内容です。


ご本人のことば

昨年この一部を西洋美術館常設展の小展示でみてから、私には写本にも氏の生き様にもぐっとくるものがありました。

何か他の大多数の人には全然なんでもないものに、魅了されて人生を賭けている人の生き様に私はいつも心打たれます。

この展覧会に来るまで、私はそれは、自分を信じる力の強さに魅かれているのだと思っていました。
その個人性が私に光を差し込むと。

しかしながら、ここにきて、フランスの古本屋での最初の紙葉(写本本体から切り離されたもの)との出会いのエピソードを読んで、写本そのものを観たときにわかったのです。

人が何かに魅了されるということは、またその魅了される対象物にその人自身が選ばれているんだということに。


ご本人のことば 2

また、その魅入られてからの30年、並々ならぬ熱意で写本を追いかけ続けてこられたのがそのことばから強く強く伝わってくるにも関わらず、そのすべて(手元に1枚を残して)を美術館に寄贈されたことの何か人間の最も美しい部分を見せてみらっているような感覚と、このような人の在りようが存在しているということの私に与える勇気がものすごく強かった。

でもその一方で、最初の方で写本を見ていて思ったのです。
その行為を行わせたのも、写本その人であったのだろう、と。
何かこの写本自体が彼をしてそうせしめたのではないか、と。

ばらばらの写本の親元をたどるエピソードの中のひとつ
エピソード Ⅱ

めぐりあわせ、というものをどうしたって感じずにはいられない。
でも不思議なめぐりあわせというのは事実この世界で起こるのです。
どうしたって偶然で片づけるのには納得しきれない強い縁のようなものが存在している。

写本自体が時を超えてなお美しく人々を魅惑する魅力を持っているということは自明ながら、
私にはそれを書いた人物の魂を込めた作業の力が後にわたってこういう不思議を起こす根源的な力の源であるように感じました。

最後に、内藤氏が美術館にそのすべての写本コレクションを寄贈してなお、ひとつだけ手元に残した「内藤氏個人蔵」の小さい一葉を観たとき、私は胸の下があつく、ほとんど本当に泣いていたと思います。

今文章を書いているときにはひとめをはばからないのでボロボロ泣いています。
どう表現していいのかわからない。

最後の一葉 内藤氏個人蔵

すべてのコレクションの中で、最も小さく最も古めかしく、端もよれていて、他の写本に比べて全然端正でもきらびやかでもないけれど(失礼。申し訳ございません。)、この紙葉がデスクの横に飾られているのを想像した瞬間に、何か私は人生の意味みたいなものを教えられたんだと思いました。

ご本人のことば 3

普段私は、個人の個人性を感じるために美術館を訪れていると感じます。

でも写本は、今この瞬間に一人ではなく、時空を超えてなお人間同士が共にあるということを教えてくれる存在でした。

非常に素晴らしい企画展です。
上野にて8月25日まで。