見出し画像

「プライベート・コレクション展」生活工房ギャラリー

世田谷区の三軒茶屋に位置するキャロットタワーには、生活工房という多目的の公共施設が備えられている。キャロットタワーはオフィス・商業店舗・劇場・自治体窓口等を兼ねた複合施設であるが、そうした多目的性を凝縮したようなスペースが生活工房だ。公式HPによれば、生活工房は「美術館でも、博物館でも、公民館でもな」く、「日常の暮らしに身近なデザイン、文化、環境などをテーマに、展示、ワークショップ、セミナーなど、子どもから高齢者までが参加できるプログラムや、手作り品のフリーマーケットなど地域に密着したイベントを実施している」らしい。運営団体である公益財団法人せたがや文化財団は、同区内において、他にも世田谷美術館をはじめとする複数のミュージアムを運営している。生活工房は所蔵品を持たずミュージアムではないことを謳っているから、さしずめ同一団体内におけるオルタナティブスペースと言ったところなのであろう。

そんな生活工房が備えるギャラリー空間では、現在「プライベート・コレクション展」という展覧会が開催されている。隣接する劇場への来場客で賑わう回廊からは、絵画をメインとする至ってオーソドックスな展覧会の風景を垣間見ることができる。しかし一歩足を踏み入れると、どことなく異様だ。陳列された22点の作品同士には何の関連性も無さそうであり、そのことが私のような素人にも一瞥して判るのである。たとえば美術館のコレクション展のように概ね時代別に並んでいるわけでもないし、ギャラリーでの個展のように一人の作家の作品ばかりが並んでいるわけでもない。同時代的な作家が集められたグループ展のように、何らかの傾向を共有しているふうでもなさそうだ。言ってみればバラバラであり、ここまでバラバラなものが一堂に会してひとつの展覧会を成している様はなかなか見慣れない。

並べられた22点についての作品リストを記した配布物があったから、上に写真を載せた。私の予想では、これらの作家名を全員知っている人はただの一人も存在しないだろう。これらに共通点があるとすれば1900年以降の作品であることだが(制作年不明となっているものも、作品を見れば1900年以降に制作されたことが容易に推測できる)、100年間を振り返ろうという網羅的な試みでないことは展示を見れば明らかであるため、「1900年以降の作品」と括ることは無意味だ。

この展覧会は、主催は生活工房であるが、企画は藤井龍による。藤井は個人宅に飾られている美術品の展示風景を撮影した『Private Collection』という写真のシリーズを発表してきた作家である。この度の企画においても、彼は世田谷区民の個人宅においてコレクション風景を撮影したそうであるが、「プライベート・コレクション展」では藤井のそうした写真のみならず、持ち主から借りてきた作品そのものもまた展示されている。そして作品リストに藤井の名前が記されていないことからも分かるように、どちらかと言えば藤井の写真よりは、区民個人のコレクションに焦点が当てられた展覧会が「プライベート・コレクション展」であるようだ。

展示風景がちぐはぐであるのは、個人がそれぞれの理由や動機によって作品を手に入れるに至ったからであり、そうした各々の経緯は会場内の3つのモニターに映し出されたインタビュー映像から知ることができる。インタビュイー(つまり作品を貸し出した世田谷区民)の性別や年齢層等の所属は様々で、彼らの名前は映像内と展示会場いずれにおいても伏せられている。また映像内では作家名および作品名が明言されないこともあるため、どの作品について語られているかも明確にはわかりづらい。おまけにモニターのスピーカーに耳を近づけてやっと聞き取ることができる音量の小ささだ。

亡くなった家族の絵を飾る人。よく見えるよう日常的に使う台所の隙間に作品を飾る人。地域の掲示板で募集していた作品の引取り手に立候補した人。入院した際に病室にも作品を持っていった人。――等々。

インタビューの内容は概ね上記のような「美談」であり、総じて世田谷区民の「多様性」が浮かび上がってくるような、公共施設らしい展示であると言える。また作品にまつわるエピソードを聞くことで、作品がより具体的に立ち上がってくる側面もある(私自身、深く興味を抱いたエピソードや作品が幾つかあった)。しかし個人の趣味趣向やものの見方が大量に可視化されることで個人間の対立がエスカレートするSNS時代においては、こうした「みんな違ってみんないい」という価値観は些か白々しくもある。誹謗中傷の飛び交う炎上を背に、「多様性」の世界を手放しには歓迎できないのである。

しかしながら、気になる点も幾つかある。ひとつに、この「多様性」の展示風景が、異様であるとまずは感じられた点。もうひとつに、「プライベート」と題されているにもかかわらず、固有名が伏せられたり映像の音量が小さかったりするために、「プライベート」を積極的に明かそうという試みではなさそうな点である。

近現代の美術史は固有名と紐付いて展開されてきた。この「プライベート・コレクション展」でも、企画者である藤井龍の名前や、各作品を制作した作家名は明かされている。しかし藤井は作家としては作品リストに明記されていないし、作品リストにはインターネット検索に引っかからないようなマイナーな作家名の記載が幾つもある。加えてインタビュー映像では顔は映されているものの名前の表記が無い。要するに、固有名の持つ記号性が薄弱なのである。これは「ラッセンとは何だったのか? 消費とアートを越えた『先』」(※1)でも論じられた、「美術」と価値づけられたものをそれ以外から再分断する「趣味」というタブーについての話題を再び喚起するものである。私的な「趣味」と公的に価値づけられた「美術」が相容れないのであれば、ここで言われる「プライベート」とは、公的には固有名が刻まれてこなかった存在の非記号的表象である。

改めて会場に佇んでみると、3台のモニターから流れる誰のものともつかない声が、互いに無関係な作品の間をペチャクチャと彷徨っている。この展覧会で感じられた異様さは、そうした価値への帰属から離れた「プライベート」が輻輳し彷徨するその気配だったかもわからない。目のまえに見えるものでありながら同時には見えないことの両義性を「幽霊的」と東浩紀は表した(※2)。この展覧会において、作品は見える。作品の持ち主も見える。しかし相互の関係を物語る声は、その関係の証明としては内容が不十分であり、音量も不安定である。人々の「プライベート」の姿は頼りなくふらふらしている。そうした私的なものの「幽霊的」な有り様が寄り集まって、「プライベート・コレクション展」は成り立っているのである。それにしても、歴史や制度その他あらゆる公的な約束事が時と場合によっては激しく対立また排除してきた「プライベート」を公共施設が挽回しようとしていることに、違和感は残るのであるが。

※1 原田裕規・編著「ラッセンとは何だったのか? 消費とアートを越えた『先』」フィルムアート社、2013年
※2 『批評とは幽霊を見ることである』東浩紀、「ゲンロン5 幽霊的身体」株式会社ゲンロン、2017年

(この記事が書かれた現在はまだ会期中であるため、作品のアップ写真は控えた。是非会場でじっくりと見てみてほしい)

-----------------

「プライベート・コレクション展」
会場:生活工房ギャラリー
会期:2019/6/15(土)~7/15(月)9:00~21:00 ※祝日をのぞく月曜休み
入場無料


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?