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「健康な街@プライベイト」

プライベイトと名付けられた3階建ての貸し民家が、都営新宿線の大島駅から徒歩5分程度の密集した住宅地内にある。民家とはもともと私的な場所であるが、わざわざ私的であることを名乗るのは、オーナーでありまた作家でもあるの考えによるものだ(詳細は後述する)。かつて慈の親族の持ち家でもあったこの場所は、2019年5月からはオルタナティブ・スペースとして駆動している。

この場所で、2019年8月2日から12日まで「健康な街@プライベイト」と題されたグループ展があった。タイトルに場所の名称が含まれているのは、「健康な街」という展覧会の開催が2度目にあたるからであり、1度目の開催と区別するものである。1度目は、慈を含む参加作家たちがゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校という私塾の受講生であった2017年に、そのカリキュラムの一環として催された。当時の参加作家6名から今回は4名に減ってはいるものの、作家たちは私塾を修了した現在もなお同じテーマを共有しつづけており、それが今回の「健康な街@プライベイト」に繋がったようだ。

1階 小林真行《サーキュレーション・アンド・ウエラバウツ》

1階は小林真行のスペースである。ダイニングキッチンの横には洗面所と風呂場が、玄関の鼻先にはトイレがある。これらすべての水場をつなぐように小林の作品《サーキュレーション・アンド・ウエラバウツ》は設置されている。水が溜まった桶の置かれた台所のシンクから浴槽へ、浴槽から洗面台へ、洗面台から便器へはビニール製のホースが伸びている。各所に備え付けられたポンプを勢いよく押し引きすることによって、台所→風呂場→洗面所→トイレへと水が流れる仕組みだ。

ポンプを何度かシュコ、シュコ、と押すうちに、急に圧が変わりグンと水が吸い上げられるのがわかる。ホースの中を勢いよく水が流れ、その先の地点でバシャバシャと放出される音が聞こえる。うだるような暑さのこの日、3階以外にエアコンのないこの家で水分を摂りながらも滝の汗をかき続けている体にとっては、一連の作業はあまりにも身に覚えのあるものだった。身体もひとつの装置であり、熱という負荷を帯びることによって汗をかく。ポンプを押す/暑さを感じる。水が汲みあげられる/お茶を飲む。水が流れ出る/汗をかく。

安定した接続ながらDIYよろしく無骨な身なりをしているこの作品は、本来であれば家を建てる際に見えない内部へと収納されてしまう機能を露呈させている。なおcirculationとは循環、whereaboutsとは行方のことである。しかし最終地点であるトイレと始発地点である台所はホースで結ばれてはいない。にもかかわらず循環と題されることによって、視点は更に建築物あるいは身体の外部へと及ぶ。我々の多くは手にした水がどこから来たのか、あるいは排泄物がどこへ行くのかを目の当たりにしたことがない。内部の機能が剥き出しにされることによって、その機能が外部へと接続されたものであることが思い出されるのだ。

2階 下山由貴《テリーヌをつくろう!》

2階へ上るとまず視界に入ってくるのは食卓である。テーブルクロスが敷かれたテーブルの上には、カトラリー、白い皿、ナプキン、ワイングラス、それに「御予約席」と書かれたプレートが並べられ、レストラン然とした「正装」が見られる。しかし椅子が備えつけられていないことやテーブルに高く積み上げられた段ボールは、そうした「正装」を率先して台無しにしている。通路側の壁に投影されたプロジェクター映像に伴う人の声だけが温和な賑やかさを醸しているが、通路からは映像が見えづらいため、テーブルの向こう側に回って見ようとする。ところが、足元に規則的に陳列された油粘土のブロックが邪魔して回り込むことができない。おまけにブロックの手前に貼られたテープには「KEEP OUT」と書かれている。この拒絶の食卓には、歓迎の気配が全くない。

これらは下山由貴による作品《テリーヌをつくろう!》である。壁に投影されている映像では、友人同士である女性2人(片方が下山本人)が家でテリーヌを作っている。「お腹減ってきた」「アサリ入れます」「めっちゃいいにおい」などと交わされるお喋りや、顔や手元が映されないまま編集されずに延々と長回しされる画面からは、いつ・どこで・誰が・何を・どうしているのかが汲み取りづらい。

下山はヴィーガンである――もしくは、そのように演出されている。このことは設置されたもうひとつの映像から確認することができる。テーブルに置かれたタブレット端末に流れているのは首から下の下山自身を撮影したYouTube映像『ヴィーガンってなに?』であり、会場ではイヤホンで聞ける仕様になっている。淡々とヴィーガンの定義や思想、それを裏付ける情報や統計を語る下山の口調は明朗でありながら断定的であり、それ故「胡散臭い・説教臭い」と感じられる。あるいはこう感じられるからこそ、私は下山の食卓に歓迎されないのかもしれない。逆に言えば、この拒絶の食卓は、ヴィーガンを選択した者自身が幾度となく出会ってきた「招かれざる食卓」を示しているとも考えられる。システムに則って食事をする者と、そのリスクについて考える者とで、同じ食卓に着くことは可能なのだろうか。下山がヴィーガンであるならば、動物性たんぱく質であるアサリを使ったテリーヌは本来ご法度だろう。壁際の映像では料理中の2人が「今度(フランス料理店に)行こうよ」「行こう行こう」と約束を交わす場面が出てくる。そんな日が来るとは想像し難い。下山が「正装」され複雑化した文脈のテーブルに着く時、彼女の問題意識はより一層確かなものとなる筈だ。これは食を主題とした作品と言うよりは、食卓を共にするための条件についての話のようにも思えてくる。

2階 五十嵐五十音《健康な街》

奥の和室へ進むと、部屋いっぱいに五十嵐五十音の作品《健康な街》が置かれている。医療用のライトボックスであるシャーカステンの上では、レントゲン写真を彷彿させる骨格・血管・細胞のような塗料の軌跡が下から照らされている。更にその上には複数のアクリルプレート・医療用器具・電子機器の基盤等がこまごまと並べられており、各部品の多くは細長い金属のネジで固定されている。突き出たネジと各部品はそれぞれ電柱や道や土地のようにも見えるため、作品全体が街のミニチュアの様相を呈している。

アクリルプレートにはテキストが小さく記されたテープが貼られているが、これらのテキストは断片的であり、はっきりと内容を認識することが困難である。作品の脇にはそれらの一連のテキストが印字された紙、および音響再生機器とヘッドフォンが用意されている。しかしテキストは殆どがひらがなとカタカナで構成されており、また子どもの日記のような文体で書かれ、かつ夢の中の場面転換の如く文脈が飛躍するために読みづらい。ヘッドフォンから流れる声も聞き取り難く、このテキストを読み上げたものであるらしいことが辛うじてわかる程度だ。話者である五十嵐の発声が、首を締め上げた時のように負荷のかかったものであるからだ。

テキスト上では、子どもが「おみそしるのあじがかわってしまう」ことに対して執拗に恐れを抱いているらしく、また最後には「おかあさん」が「かがくちょうみりょう」を用いる場面が出てくる。しかしこうした細部の情報を総合した時に浮かび上がってくる作品の全体像――たとえば人体に寄生した人工的な都市の風景など――が意味を成すには、情報が多すぎやしないだろうか。多重の階層が密集して構成されたこの作品においては、各々の断片同士の関係性が予感させる何らかのストーリーよりは、断片そのものに対する作家のフェティシズムが際立っているように見える。五十嵐は映像にまつわる仕事に携わっているそうだが、この作品においても断片を構成する編集への指向が垣間見える。各断片が独立しながらひとつの作品としての重量を持っているのは、そのためではないか。「健康な街」というものがあるのだとすれば、それは五十嵐の《健康な街》が体現しているような、編集によって上映される夢のようなものなのかもしれない。

3階 慈《スーパー・プライベートⅣ―きっとくる―》

五十嵐のシャーカステンが発していた光が強かったため、薄暗い階段を上るのに苦労した。唯一エアコンが設置された3階は、プライベイトのオーナーでもある慈のスペースだ。部屋の奥には背もたれが傾いた椅子が置かれており、その上部の天井に向けてプロジェクターから映像が映し出されている。映像には慈本人と、慈のまだ幼い娘が映されている。どうやら2人は高層建造物の屋上で夜空に何かを探しているところであるらしいが、何を探しているかはピー音(自主規制音)で伏されているために知ることができない。2人は「人工衛星、人工衛星、とーまーれ」という呪文を繰り返し唱えたり、笑いながら夜景を眺めたりしている。またその姿が楽しそうであればあるほど、映像の直下にある椅子のぽつんとした佇まいが際立ってくる。傾いた背もたれは、それがかつて誰かに使われていたものであることを証明しているが、この時は誰にも座られていない。ここでは執拗なまでに不在が強調されている。

この慈の作品《スーパー・プライベートⅣ―きっとくる―》は、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』(登場人物たちがゴドーを待つも結局ゴドーは現れないという不条理劇)へのオマージュである。そう記された慈のステイトメントには、携帯電話の番号が記載されている。「パフォーマンス 電話1分程度 この部屋から090-xxxx-xxxxへおかけください」とあるので、手元のiPhoneから発信してみることにした。

プルルルルル、プルルルルル……

慈 「はーい」
(沈黙)
私 「パフォーマンスがあるということなので、かけてみました」
慈 「はーい。お名前教えてくれますか?」
私 「マリコムです」
慈 「ベランダに出てください」
私 「(ベランダに出て)出ました」
慈 「右の方を見てください。上です、上」
(沈黙)
私 「(遠方に見える建物の屋上に手を振っている人影を発見する)いました!」
慈 「(電話を外して手を振りながら、大声で)マーリコームさーん!!」
私 「(手を振り返すが、近所迷惑になることを気にして大声を控える)」
慈 「今、そっちに行きますね」
私 「えっ」
(電話が切れ、慈が見えなくなる)

慈の「きっとくる」が予感や切望を指すものであって、具体的な実現予定を指しているわけではないということは、戯曲を思い返せば容易に想像できることだった。プライベイトに滞在する限りは、彼女が来ないという状況のパフォーマンスが続くのだろう。室内に戻ると数名がクーラーのもとで涼んでいたが、彼らも慈を待っていたのかもしれない。人が手持無沙汰に沈黙し座りこむ光景は正しく『ゴドーを待ちながら』の上演風景であり、私もまた登場人物の一人になってしまったというわけだ。ところが後から慈本人に聞いたところ、「最初は行かないつもりだったけれど、やっているうちに行きたくなり、本当に走って行ったこともあった」と言う。そういえば映像内では慈も待つ人だったのであり、ピー音で被された待望の何かが鑑賞者であると捉えるのであれば、見つけたら走って行きたくもなるだろう。「それはやはり違うと思い、元のプランに戻した」とは言うものの、あるいは来る/来ないという結果よりは、家が(家で)誰かを待っているという状況を作り出すことこそが重要だったのかもしれない。

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慈は「スーパー・プライベート」という言葉とともに活動を続けている作家であり、プライベイトという場所の名付けはこの言葉から来ている。「自分のプライベートを扱った作品を作っているから、自己充足的になってしまうリスクが常に伴う。作品が『私』と『公』の境界を越えて行ってほしいという思いから『スーパー・プライベート』という言葉を使うようになったが、作品を他者へ開くとはどういうことなのか、という問いが解消されたわけではない。だから今回スペースを持ったことは大きかった。自分の私的空間であるにもかかわらず、プライベイトを通して『私』をダイレクトに他者に明け渡せると思った」と慈は語る。

「プライベイトは空き家だった頃よりももっと以前は、愛人が住む家だったと聞いたことがある。だからこの家は誰かを待っているという性質を持つものであると捉えた。小林さんが書いたステイトメントにもあるけれど、江東区は江戸時代になるまでは海だった場所。人が住んだり離れたりを繰り返すようなところで、不動産屋からはオリンピック前が売り時だと勧められた。そんな流動的な場所で、この家が人を待ち続けているということが面白いと思った。下山さんの不在を強調するような空間へのコミットや、五十嵐さんの投げ出された肢体のような作品は、そういうこの家にはまったし、小林さんは家に再び血液のようなものを巡らせてくれたと思っている。」

慈の在り方は、私的領域の担保と拡大のために内側へ向かって他者を抱き込んでいるという見方もできる。オーナーである慈の作家活動にとってプライベイトが重要な足掛かりとなる以上、たとえば今回のような展覧会は彼女の活動に集約されてしまう可能性があるからだ。「健康な街@プライベイト」はキュレーター不在であり、また展覧会ステイトメントは小林によって書かれている。にもかかわらず会場が慈の所有物としての家であることや、会場内の鑑賞ルートが1階から3階をつなぐ狭い階段によって限定されること、更には最上階に置かれた慈の作品が外部へと突き抜ける構造を持つことによって、そのスペクタクルを下階に置かれた他の作品が結果的に補強する役割を果たしてしまう。

しかしながら、こうした性質だからこそ、慈は尚のこと他者を欲しているのだとも考えられる。トリン・T・ミンハ(※1)は、移民という「余所者」にとって、それまで自明とされがちであった家と言語は「状況次第で変わりうる、かりそめの場所(※2)」であるとした。3名の作家――小林・下山・五十嵐がプライベイトにとって「余所者」であるとすれば、ホストである慈の自明のものとしての私的領域を揺るがす運動を彼らは持ち込む。中でも下山の作品が他者を受け容れるという態度そのものに懐疑的な姿勢を示していたことは、プライベイトの方向性と相容れないという点で特筆に値するだろう(《テリーヌをつくろう!》において、寛容はあらかじめ限界を持つものとして捉えられている)。こうした「余所者」との摩擦を含む「かりそめの場」として今回のグループ展を捉えた時、展覧会は、慈の言うところの「人が住んだり離れたりを繰り返す」この街の性質と地続きになる。つまりは慈の自己充足的な性質から抜け出すことができるようになるのである。

個人が場を持つということは重要である。「私」の考え・発言・決定が「公」に委託されると、それらは影響の範囲を広げる代わりに付随したはずの文脈や責任の所在を少なからず手放したり見失ったりするだろう。作品に例を見ると、小林の《サーキュレーション・アンド・ウエラバウツ》は井戸を彷彿させる。井戸は水源のあるところに掘られるものであるが、上水道が整備されると、我々はどこに水源があるかを知る必要がなくなったどころか、欲さずとも蛇口をひねれば水を得ることができるようになった。水を欲しいと思う「私」の欲望と、その欲望に応えるべく「公」が整備してきた水道から水が出るという結果は、常に釣り合いが取れるわけではない。またその釣り合わなさは、端的に「腹にちからを込め全身を使って水を汲む」から「手首で蛇口をひねる」という運動の減少に現れていることをこの作品は想起させた。更にその延長線上で五十嵐の《健康な街》を捉えるのであれば、折り重なった種々の断片は謂わば過剰な供給であり、だからこそ彼は音源の中で何かに押し潰されたような声を出しているのかもしれない。「健康な街@プライベイト」は、そうした機能不全のシステムから「私」を取り戻そうとしているように見える。それ故ここで言われる「健康」とは、「余所者」との摩擦や「住んだり離れたりを繰り返す」ことを含む何かしらの運動の回復を指しているように思われるのである――ちょうど一軒の空き家だったところに人が出入りするようになることと同様に。

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「健康な街@プライベイト」
会期:2019年8月2日(金)~8月12日(月)
時間:平日 17-20時、土日祝日 13-20時
会場:プライベイト(東京都江東区大島5-25-12)
展覧会URL(プライベイト旧HP):https://2019private.amebaownd.com/pages/3095423/static
プライベイトHP:https://tokyoprivate.theblog.me/

※1 トリン・T・ミンハ(Trinh T. Minh-Ha)……1952年生まれ。ヴェトナム出身。アメリカで活動する詩人・作家・映像監督。カリフォルニア大学バークレー校教授(映画学・女性学)。ヴェトナム系アメリカ人という自らの異質性に立脚しながら、著作“elsewhere, within here”(邦訳題は『ここのなかの何処かへ 移住・難民・境界的出来事』)では内なる他者に創造の源泉を見ている。

※2 トリン・T・ミンハ著『ここのなかの何処かへ 移民・難民・境界的出来事』小林富久子訳、平凡社、2014年、p74

レビューとレポート第6号(2019年11月)

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