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赤ちゃんを「返す」世界で

出産前後の生活と気持ちの変化

今年の5月、緊急事態宣言の真っ只中で初めての子供を出産した。男の子だった。妊婦さんというものは幸せの淡いベールで包まれている印象があったのだが、自分は正反対だった。「自分のお腹に子供がいる」という喜びをどうしても受け止められず、悶々として過ごしてしまった。身の回りに小さい子や赤ちゃんはいない。子供が生まれた後の生活が想像できない。子供をきちんと愛せるのか、不安を抱えたまま出産した

予想に反して産んだ瞬間から息子のことが可愛いくてたまらない、と思えたのは幸いだった。目を閉じたままモソモソするのが可愛い、あくびをする姿が愛おしい、お風呂に入れて気持ち良さそうなのが嬉しい、うんちが出るだけで楽しい。

出産前、自分一人の時間が何より大切だと思っていたけれど、1日のほとんどを息子のお世話と家事が占めるようになった。週に何度か自分で動いてくれるロボット掃除機に任せっきりだった掃除も、「埃っぽいところで寝かせてて赤ちゃんが喘息にでもなったら大変!」とマメに掃除機をかけるように。大人二人だったら週末にまとめて3回くらい洗濯機を回せば十分足りていた洗濯も、毎日洗濯機を回して大量のガーゼやらタオルやらを洗濯するようになった。毎日毎日息子を追い掛け回しながらあっという間に1日が過ぎていった。それがちっとも嫌ではなかった。

赤ちゃんを「返す」世界の夢の話

6ヶ月が過ぎ、ふにゃふにゃの赤ちゃんではなくなった息子。多分、自分も夢中でお世話し続けてきた中でひと段落ついたのではないかと思う。突然変な夢を見た

夢の中では、生まれてきた子供を1年経ったら「返す」世界だった。夢なので返す先はどこなのか定かではない。おそらくは神様のところとか、楽園的などこかに返されて、赤ちゃんはそこでまた暮らす、親はまた子供がいない生活に戻る。その夢の世界観では赤ちゃんを1年経ったら「返す」ことがデフォルトなので、「返すべきか返さないべきか」という葛藤はどの両親も特に持たないようだった。

夢の中では私はたった今赤ちゃんを返してきたところで、夫と話をしていた。私は夢の中で「あー、赤ちゃん可愛かったねえ・・・!1年間満喫したねえ・・・それにしても、大人二人の生活になったらやっぱり楽だわー!」と、なんとも晴れ晴れして夫に話しかけているのだ。

こんなに息子のことを可愛い可愛い愛おしいと思っているはずのに、1ミリも寂しいとか悲しいとか思っていなかった。息子のためにおかゆや野菜を炊いてすりつぶすというなんとも面倒くさい作業を毎週繰り返すことも苦じゃなかったはずなのに、手間がかからない大人だけの生活に戻れることを心から喜んでいた。

晴れ晴れした自分に対する戸惑い

夢から覚めた時、びっくりした。赤ちゃんを返して、晴れ晴れしている?もう赤ちゃんを手元に置いておけない寂しさも悲しみも感じていない?

びっくりすると同時に若干の思い当たる節があってギクリとする。目の前にいる無防備な赤ちゃんを生かすため必死にお世話する期間を過ぎてしばらく経った。コロナの影響もあり出産当初は世界にわたしと赤ん坊だけがいる静かな暮らしだった。だんだんと友人やら、ネットやら経由で他人の子育ての様子が耳に入ってくる。

息子にだけ向いていた関心のベクトルが、だんだんと世間に影響された「理想的な母親像」の方に向いてしまう。ありたい母親としての姿と、頑張ってもうまくいかない自分とのギャップに苛立ち、勝手に落ち込んでしまう。

そんな葛藤をよそに、息子は光の速さで成長する。首も座り寝返りもできる。ついに最近はズリバイで移動能力まで獲得した。本人も「もうベテランの赤ちゃんですよ」みたいな顔をしている。

彼がわたしに求めるものは、次々に変わっていく。その成長のスピードに必死についていかなければいけないこと、世間の「理想的なお母さん」との比較でも自分が見劣りすることに、だんだん疲れてきていた。「育児を最初から何もかもやり直したい」と思うことすらあった。夢に出てきた「1年で赤ちゃんを返す世界」は、そんなわたしの疲れとリセット願望の現れだったのではないか。

すべすべの頬のやさしさにふれて

夢を見た日の午後、お昼寝中の息子のクリームパンみたいな手と、すべすべの頬に触れてみる。撫でながら、起こさないように小声で「1年経っても、どこにも帰らなくていいんだよ。ずっとここにいていいんだよ」と話しかける。

息子にしてみたら訳のわからない話だ。勝手に産んでおいて、「ずっとここにいていい」も何もない。むしろずっとここにいて、愛されてお世話されるのが彼の当然の権利なのに。

でも、夢の中であまりにも晴れ晴れしていた自分がショックで、繰り返すことをやめられない。「ずっとここにいていいんだよ、どこにも帰らなくていいんだよ」何度も小声で話しかける。

言ってるそばから涙が流れて止まらない。流れた涙がボタボタ息子のベビー布団に落ちる。無償の愛を注いであげようと思っているのに、それだけは他のお母さんにも負けないと思っていたのに。

眠っている赤ん坊は大仏みたいな顔をしている。変に達観したような表情は、未熟な自分を諫めているようにも、許しているようにも見える。また寝ている息子の頬に触れる。ふわふわで、すべすべの肌のやさしさにふれて、私は必死で気を取り直す。できる限りの愛情を注いであげたい。幸せにしてあげたい。その気持ちだけは、本当のはずなのに。

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