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雨の日曜日に感じた罪悪感

今日、改めて気付かされたことがあります。

それは、

「私は、生来、大の怠け者であるが、内面では自分自身に超厳しい」

ということです。

自分に厳しいと、自然と普通の人よりも罪悪感を抱きやすくなります。

で、今日は何に対して罪悪感を感じたかと言いますと、

今朝、寝てたい誘惑に負けてジムに行けず、午後もダラダラと過ごしてしまったこと、

そして、「今日は雨が降ってて外も寒いから今日一日ぐらい別にいいっしょ」

と、またまた自分自身に言い訳をしてしまったことに対して、

です。

別に、誰でもよくあることじゃないですか。

誰だって時には休日にダラダラして過ごす日ぐらいあるはずです。

何なら、毎日のようにダラダラして過ごしている人だって世界を見渡せばたくさんいるわけですよ。

で、そのことに対してどれくらい罪悪感を感じるかは、全く以て人それぞれだと思います。

私の厄介なところは、

大の怠け者であるくせに、やたらと自分自身に対して厳しい、つまり、罪悪感を感じやすい、

ということです。


じゃあ、なんでこんな風になってしまったのかについて考えたのですが、今のところ以下の理由が考えられます。

① 生まれつきの性格
 → これは間違いなくあると思います。

② 子供の頃、お婆ちゃんっ子だった
 → これ、結構影響が大きいと思います。

そのお婆ちゃんというのが、大正14年生まれの、戦前の教育を受けた人で、太平洋戦争の戦中・戦後の厳しい時代を強い精神力で生き抜いた人でした。
(少なくとも、本人はいつも私にそう語っていました。)

そんなお婆ちゃんが大好きで、好かれたかった子供時代の私は、お婆ちゃんに好かれるように、いつもお婆ちゃんの言うことを守るように気を付けていましたし、お婆ちゃんのように強い人間にならなければダメなんだ、と思い込むようになっていたのだと思います。

でも、本音では、自分がとても弱い人間だということを薄々知っていたのでしょう。

簡単にすると、以下のような流れになります。

お婆ちゃんに愛されたい

自分は強くならなければならない

でも、本当は弱い自分であることを知っている

罪悪感が強くなってしまった

③ 少年時代、陰キャな自分が嫌いだった

小学校では、クラスの友達からよく「いつも暗いね」と言われて落ち込んでいました。
もっと明るくなってみんなと仲良くしたい、と思っていました。
しかし、極度の対人恐怖症であった私には、それが出来ませんでした。

この、なりたい自分と現実の自分とのギャップの大きさが、罪悪感を強めることになったのだと思います。


あと、忘れているだけで、まだまだ他にもいろいろな理由があるのだと思います。

「罪悪感」というものを完全な悪者扱いにしてしまいましたが、この地球上に生まれてきた以上、すべての人は大なり小なり「罪悪感」を意識的、無意識的にもっているのではないでしょうか。

完璧な親や家庭というものは存在しませんから、だれしも幼少期に「罪悪感」を強めてしまう何らかの経験をされているのでしょう。

いや、自分はそうじゃないよ、と言う人は、ただ表層意識において忘れているだけで、無意識下に必ず「罪悪感」を抑圧しています。

でも、この「罪悪感」とか言うやつ、ただの悪者なだけなのかというと、そういうわけではないでしょう。

人は、最悪感を隠し持っているからこそ、もっと良くなろう、幸せになろう、と思ってがんばれるのではないでしょうか。

もっと大きなスケールで見ると、この文明社会(今の社会を「文明」と呼ぶに相応しいかどうかは別にして・・)自体が、人間の隠し持つ「罪悪感」に対峙する中で創り出されてきたものだと思います。


どうでも良いけど、とりあえず今日は罪悪感を強く感じてしまいましたので、思わず何らかの形で表現したいと思っていたら、何か意味も無く長い文章になってしまいました。(苦笑)


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