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「いまここ」という基準では幸せになれない



「自分が抱えている問題や悩みは、捉え方次第で解消できる」「全ては心の在り方の問題」

今、そういう時代であるらしい。

開放的で、自由で、希望につづく、新しい時代のように、見える。

でも、全然そうじゃない。こういう時代だからこそ、みんな幸せになれない。


■<自己>のホメオスタシスを保つことが最優先の時代

「自分が抱えている問題や悩みによって私は苦しい。だからそれをなんとかしたい」をパラフレーズすると「いつでも心安らかに過ごせることが私の幸せ」となる。

常にこころをフラットに保てる人を「成熟している人」だとか「立派な人だ」と現代は評価しがちだけど、本当はそうじゃない。ただ、周りの出来事や人や物から自分を切り離して存在しているだけ。

こころをフラットにするスキルは、「人間にとってそもそも生きにくい<社会>」(人間にとって<社会>とは不自然なもの・便宜上のもの)で生きていくために必要なものではあっても、大事な人とのコミュニケーションに用いるものではない。大事な人との<生活世界>にこれを持ち込むと、幸せが自己完結化、自己満足化する。相手が幸せかどうかはどうでもよくて、自分が幸せ(自分の心が快適)かどうかに執着する。

「幸せ」と「快適」は違う。「幸せ」(のようなもの)は、何かと繋がった時にしか得られない。「相手が幸せそうだから、私も幸せだ」とか「相手と自分が繋がったと感じられることで感じる幸せ」とか。これは自己犠牲とは違う。



■信頼で繋がった人間関係やホームベースを作るにはコミットメントが不可欠

他者や場所と深く繋がるには、時間の積み重ね空間の積み重ねが不可欠。相手やその場に深くコミットメントしなければならない。

深くコミットメントすると、必然的にいろいろな摩擦を生む。しんどいことや苦しいことが沢山ある。面倒臭いことも沢山ある。恥をかくこともある。それがあってはじめて、その人やその場所が、自分にとって「入れ替え不能」で「かけがえのないもの」になり得る。逆もそうで、相手やその場所にとって、自分が入れ替え不可能な(かけがえのない)存在になる。

だから、自分の「いまここ」の精神状態をフラットにすることにだけに注力する積み重ねは、長い目で見て、何とも繋がることができない。

幸せっていまここにあるものではない、と私は思う。今は分からなくても、すぐに結果は出なくても、長い目で見て今やらなければいけないことがある。自分の大切な人に幸せに生きて欲しいと思ったら、「無駄に見えるそれ」や「摩擦を生み出すそれ」や「コストでしかないそれ」らを放棄していいとは思えない。誰からも理解されなくても。そういう積み重ねの途上にしか、幸せはないと思う。そして、それに向かいつづけることが大事なのだと思う。


■コミットメントには動機付けが必要

とはいえ同時に。何かにコミットメントして頑張るって、ひとりでは出来ないことでもある。私たちが頑張れる要因を個人的に3つ挙げるとすると。

ひとつは、なにがなんでも「守りたい仲間」がいる居ること。

ふたつめは、包摂してくれる集団の中で安心して成長することで「自分は大丈夫だ」という尊厳が自分の中に育まれること。尊厳がないと、試行錯誤して進んでいく勇気が出ない。(だから成功体験だけじゃダメ。たくさん失敗するのがいい)

そしてみっつめは、人や場所と深くコミットメントした経験があること。実際の経験があるから繋がることの幸せや必要性を感じることができるし、その経験を生かして仲間を作ることができる。そうして繋がった仲間と、互いに支えたり支えられたりしながら進んでいく。それはまた、人や場に恩を返したいという動機を生む。

「みんなのことをちゃんと考えなさいよ」とか「ありがとうをちゃんと言いなさい」とか、子どもに口で教えても無理だ。「自分にとって大事なみんなって誰か」とか「大失敗しても包摂してもらえる経験」とかを実際に体験するす中でしか芽生えない動機。(時間的なコミットメントも空間的なコミットメントもコストカットできるリモートワークやオンラインコミュニケーションでは、これはなし得ないと考える。経済やコロナ対策といった目的のためには大いに活用するべきだけど、全てそれに置き換えて言い訳じゃない。置き換えることで出てくる弊害などを広く考慮する必要がある。テックの利用は熟議が必要な案件)

動機付けには仲間が必要だということだけど、それには仲間を作るスキルがなければいけない。ここで言う仲間とは契約とか所属とかそういうのを越えた法外で繋がった仲間のこと。家族というラベル、夫婦というラベル、友達というラベル、同じグループというラベル……ラベルが貼られていても、仲間とはいえない人間関係はたくさんある。自分の社会的ポジションや利益を捨ててでも助けたいと思えるような仲間はいるだろうか。夫婦であっても難しいのが現状。

どうしてそうなってしまったかというと「他者と深くコミットメントして仲間を作る」という経験も能力も今のわたしたちにはほとんどないから。そういう環境もモデルも身近に皆無な中で育ったから。

1932年生まれの社会学者・小室直樹先生は極貧の母子家庭だった。地元会津のエリート校に進学する時は近所の人たちが学費の面倒をみてくれた。京大受験のときの運賃も全て近所の人が出してくれた。けれど帰りの運賃でお酒を飲んでしまって帰りは京都から会津まで歩いて帰った。私は小室先生のことはほんの少ししか知らないから詳しいことは書けないけれど、膨大な学を修め、日本の社会にとって多大な影響を与えた小室先生の中には、故郷に恩を返すという気持ちが強くあったという。これは単なる英雄譚ではなく、小室先生のようなエリートではなかったとしても、自分の祖父母世代の幼少期の話を聞くと大なり小なり社会にありふれた雰囲気であったことがわかる。

便利で快適で安心安全な社会で育った私たちは、そういうことも知らないで、とにかく自分の社会的ポジションにしがみつくのに必死。自分が自分の足で立つことがえらくて(実際にひとりでは何もできないのに)、その為に必死。確かに日本の社会システムが、もはや自分のポジションに固執しなければ生きていけない社会になってしまっている。でもこれは、「しょうがない」わけではない。欧州などでは地域や国民で共生しているという伝統的な規範がちゃんと継承されているところがたくさんある。

世界的に分断は進んでいるけれど、得に日本において、個人が分断されて自分が全体の中の一部だと感じることが難しくなっている。だから、私たちは幸せから見放されている。


■仕事で自己実現はできない

幸せを仕事(<経済>)で実現している…と勘違いしている人はたくさん居る。「自分には目的に向かって一緒に邁進できる仲間がいる」と。

でも、家族や地域で実現出来ている人はいるか…。日本ではすごく少ない。<経済>は効率の悪いものや生産性のないものは生き残れない構造になっている。そういう世界。

仕事(<経済>)は本来、自分の<生活世界>を包摂する<社会>を回す為にするものであって、繋がりを求めるところじゃない。コストカットしなければ生き残れないのが<経済>。一方、人との信頼による繋がりは経済的に見るとコストと思われるような行動の中からしか育まれない。

だから、仕事での自己実現で幸せになるなんてことはあり得ない。でも<生活世界>でマトモな繋がりが出来ないから、仕事で自己実現して埋め合わせたい。



■「社会で勝つこと=幸せ」という勘違い

今の時代、<社会>(<経済>)の中でうまく立ち回れることがすごいことかのように感じられていて(目に見えやすいから)、すべてがその尺度で評価されていく。

それが<生活世界>(家族や地域や性愛)も侵食して、家族でも地域でも性愛でも、人間関係がみんな<経済>を扱うみたいに扱われている。分かりやすくて、手っ取り早くて、手軽で、すぐ結果が出て、見栄えが良くて…そういう風に人間関係も作れると思っている。相手のことはどうでもよくて、分かりやすいことや、すぐ結果が出ることや、いまここが楽しいことが大事な人だらけ。

でも、そんなので信頼で繋がった人間関係なんて出来るわけがない。男女関係でもそうなんだから、まともな夫婦関係なんて作れるわけがない。

そういう<生活世界>の中で育った私たちに、「幸せ」や「繋がる」という感性はすごく乏しい。


■社会学から見た時代の三区分

今の時代を、社会学者・見田宗介先生は「虚構の時代」、宮台真司先生は「<自己>の時代」と定義している。

見田先生の区分は、「理想の時代」(敗戦〜1960年)→「夢の時代」(1960年〜1975年)→「虚構の時代」(1975年以降)と移り変わる。

図式を精密化した宮台先生は、「理想の時代」=「<秩序>の時代」→「夢の時代」=「<未来>の時代」→「虚構の時代」=「<自己>の時代」と再定義。

内容をここで詳しく説明できないのと、私がこの記事で書いていることが「虚構の時代」=「<自己>の時代」の説明であるという訳では到底ないということは断った上で、なぜこのことを紹介したかというと。

社会についての学問である社会学では、時代は移り変わっていると認識されていて、この時代の三区分においては、日本の人々が「現実」をどんな物差しで評価するのかの移り変わり、や、それがどのような歴史の流れや要因で起こり、それによって人々の真理や行動に何が起きたか。社会にどんな前提を与えたかなどといったことを解説している。

私たちが今、「これがいい」と思っているものは、「その時代の」物差しで測った評価であって、「それが正しい」ということではない。私たちが掲げる「正しい」や「善い」や「まとも」は絶対じゃない。そういうことを考えるひとつのきっかけになる。

また、どの物差しの時代にもそこから発生するメリットもあればデメリットもある。デメリットをなくしてメリットだけにするということは「社会」に限らずどんなことにだってできない。そのことを踏まえたうえで、社会学は常に、そこに発生するデメリットや問題をよりよくするにはどういうことが考えられるのかということを研究しつづける学問である、と言えると思う。


■自由になったのではなく臆病なゆえに外と繋がらなくなっただけ

「虚構の時代」=「<自己>の時代」とは、自己のホメオスタシスに役立つためなら虚構でも何でも利用する時代。

わたしたちは心が穏やかなようでいて。摩擦を避けているだけで。だから誰とも繋がれなくて。本当はみんな、不安で、寂しくて、孤独。

不安や孤独だと、周りが規定可能な状態にないと落ち着かない。だからいろんなことが自分のコントロール化にないと不安。

失敗するのが怖いからマニュアルやレポートがない様な予測不可能なことにチャレンジできない。自分のたてた計画通りに運ぶかどうかが最重要で相手の顔色とかは見てない。(つまんないデート。つまんないセックス。つまんない会話。こんなはずじゃなかった夫婦。こんなはずじゃなかった家族。日本どこでもみんな同じ。どうせこんなもんかとみんな諦め。)

私たちは常に周りを見張っている。だから、自分も見張られてることを知っている。だから、ビクビクしながら過ごしてる。

すごく生きにくい。

これは個人(心理)だけの問題じゃない。社会の問題でもある。社会の問題は歴史の流れの結果であり、歴史とは複雑。だから、心の持ちようで辛い気持ちを一瞬忘れることができたとしても、問題は解決しない。

自分たちが生きる社会を自分たちで作る意識を持つべき時だと思う。



■仲間をみつけるために言葉やルールやラベルを超えて人とつながるスキルが必要

私たちは幸せから見放されているけれど、その反省をして、次の世代に改善した社会を受け渡すためにどうしたらいいかなって考えている。

私が子育てで試行錯誤していることのひとつは、「社会で勝つためのスキル」じゃなくて、「人と繋がれるスキル」を育むためにどうしたらいいか。人と繋がれる(人を幸せにできる)人になる為には、人間の枠に囚われず、あれゆるものと繋がれることが必要らしい。空でも、山でも、川でも、建物でも、動物でも虫でも…。それが出来ないで、人とだけ繋がるということは難しい。

分かってることは、そのスキルを育む臨界年齢は7歳頃までだということ。スキルを育むというのは、教え諭すんじゃなくて、体験から自分で学ばないといけない。だから、大人は体験できる場所や機会を用意しないといけない。


【参照】臨界年齢について

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(引用:宮台真司氏が勧める「モテ教育」とは?子供を魅力的な人間に育てる方法)


けれど、今、感情的能力(思考を超えて相手が感じていることを自分のことのように感じる能力)を育むような体験に現実社会で触れるのは難しい。

なので、私は代替機能として、ひとつは、宮崎駿監督の作品をたくさん見せている。たくさん理由があるけれど、ジブリの魅力的なキャラクターは理屈とか正論とかで動いてない。それにヒトだけが交流可能なものであるとも描かれていない。(また気が向いたら他の理由も紹介するかも)。

<社会>は理屈や善を正しいとするし、ラベルで人を判断するし、メリットデメリットを計算して得をする方を選ぶけれど、そんなもの<社会の外>(仲間や性愛)には適応しない。ドーラは社会のルールからすると悪とされるけど、悪人じゃない。マトモな人だ。

それから、1960年代のこども向け番組とかDVDも見せている。そのころは、<社会>の内に留まるなって言うメッセージを含んだコンテンツがたくさんあったということで、そういうのを探して見せている。


■自分たちの世代を犠牲にしても、社会改革をする必要がある。マクロには日本は終わってるからミクロにやるしかない

映画やテレビのコンテンツ以外には、自分の住む地域で、こどもが「人や場所とコミットメントできる仕掛け」を作れないかとずっと考えている。

コロナの件で日本のダメさが顕になった。政治も経済もヤバいと気付いた人は多いと思う。国レベルではもう日本がよくなる見込みはない。生産性も低くて景気は回復しないだろうし、テックを国レベルで効率的に導入もできないだろうからどんどん遅れていく。それでも、自分の利益にしがみついた人が既得権益を放棄できないから、社会や政治のシステムや構造は変わらないだろう。

かといって、現代は家族が空洞化しているから家族にも頼れない。機能していないのなら、もはや従来の核家族に拘らなくてもいい。昔あったような、仲間を包摂する機能を担う何かを、家族以外の集団や地域においての集団などで、果たすことはできないかと。

簡単に答えは出ない。結果も出ない。だからよく馬鹿にされるし、理解もされない。でも私はすごく大事なことだと思ってるし、結果がすぐ出ないからやめるってこともない。

そのくらい複雑で難しい問題。個人の問題じゃなくて、社会の問題だから。深い歴史の上に作り上げられた現代だから。結果は遅れてやってくる。きっと自分が生きてるうちに大きく変革することはないと思う。それでも、種をまかないといけない。馬鹿にする人は、勝手に笑っておけばいい。




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