『愛は光にみちて』短編4/7 #シスター
そのとき扉があいた。繊細な光は濫妨な陽光にかき消された。まるで宝石匣の蓋を直射日光の下であけたように──。
私は扉をふりかえった。人が立っている、修道尼だ。黒い僧衣のシスターが外光を背に私を見つめている。私はすぐさま謝罪した。
「すみません。ことわりもなく……」
尼僧は黙っている。
「じつは先ほどK教授をお訪ねしたのですが、あいにく校舎がしまっていて、それでつい懐かしくなってここまで、私はここの卒業生です」
言いおわって内心舌打した。いわずもがなのことを──。
「そうですか」
思いのほか若くやわらかな声でこたえると、修道尼は静かに中に入り扉をしめた。割りこんだ光が締めだされ、琳瑯の光がもどったとき、私は目を疑った。肖ている、あの人に。あの夏の日、本館で出遇った美しい女性。
「ではどうぞお祈りをしてください」
修女はうながすように一揖すると、私のよこを通りすぎた。
──お祈り?
私には、まったく自然に発せられたその言葉があまりに唐突に、あまりに意外に聞こえ、とっさに修女を呼びとめた。
「シスター。私はクリスチャンではありません。それに今日はただK教授にお会いしに」
「K教授は召天されました」
「いつですか」
「もう、二十年前になります」
うかつだった。閲した年月を置き忘れていた。言われてみれば三十年前すでに高齢であった人が、いまなお存命であるはずもない。
シスターはふりむいた姿勢のまま、まばたきひとつせず私を見つめている。
──あなたは承知のうえで言っているのですね
修女はちいさくうなずくと、ふたたび祭壇にむかい歩きはじめた。法衣の裾をゆらす後ろ姿はしなやかで凛々しい。私は修女のあとにしたがった。
シスターは祭壇と信者席を仕切る柵の前にくると、私には長椅子をすすめ、みずからはロザリヨを持つ掌をあわせひざまづいた。
私は二三列うしろの席に着座したが、羞恥と狼狽でとても掌をあわせる気にはならなかった。跪坐した修女は祭壇のクルスを仰ぎ見ている。磔刑の主は力なく首をうなだれている。
天にまします、我らの父よ
願わくは御名を崇めさせたまえ
御国を来らせたまえ
御心の天になるごとく、地にもなさらせたまえ
シスターの祈りを聞きながら、私は祭壇の後背に造られた壁龕に聖母像を見ていた。聖母は馳けよる幼児を迎えるようにさしのべた双手をひろげている。まとっただけの衲はあやうく手首にかかり、そのひだはオーロラのようにひるがえっている。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ
私は豊麗な聖母の面差にいくえもの顔をかさねていた。そしてシスターがあのときの女性ではあり得ないことを、いまさらながら悟った。シスターは私より(ふたまわりは)若い。彫像の聖母は変わることのない微笑を、ほころぶ口もとにうかべている。
我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは、
限りなく汝のものなればなり
アアメン
修女は起ちあがり私をふりかえった。私も席をたち修女を見つめかえした。彼女の瞳にはひとつの仕事をなしとげた嬉々とした充足感がみなぎっていた。それは妬ましいほど晴やかに、まぶしいくらい初々しく、満面にほとばしっている。私は少女のような頬笑に気後れを禁じ得なかった。
〈つづく〉
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