十字架の幻について

ある日私は幻を見ました。
子供たちを寝かして自分も横になっていると、部屋の天井にオーバーラップして映像が見ました。そこにはゴルゴダの丘と十字架、大勢の人だかり、私はちょうど空の低い位置から見下ろしている感じでした。すぐにそれがイエス様の十字架だと気が付き、殺気だった大勢の人たちと悲しみに崩れ落ちている何人かの人たちを眺めました。私の目はその悲しんでいる人達の中に自分の姿を探し始めていました。私はクリスチャンとして育ってきたから、そこにいるに違いないと思っていたのです。
けれどもその人たちの中に私は居らず、さらに眺めている私の目は、十字架の足元で拳を振り上げ「神様なら降りてこい!」と叫んでいる自分自身を発見したのです。「何故そこで、何をしているのか?」狼狽し衝撃を受けた私の目はその瞬間、拳を振り上げている自分の目線に降ろされ、同時に十字架を仰ぎ見ることになりました。
その時、十字架上におられたキリスト・イエスと私は、目と目が合い、その御声が聞こえてきたのです。
「父よ、この子を赦して下さい。まだ何も知らないのです。」
イエス様の十字架が自分の為であったと、何度も聖書で読み、何度も教会で教えられてきたことでした。頭では理解していて、それを信じているつもりではいても、現実であることに私は気づいていなかったのです。
主は今も生きて、私の為に祈っておられる。
それまでの私は自分の心の中の部屋に、イエス様の肖像画を飾って、この人が私の救い主と思い込んでいるだけでした。けれどもこの幻を見た瞬間、イエス様がその絵の中から現実に出てこられ、生活の中で私に語りかけてくださるようになりました。正しくは「なった」のではなく「そのことに私が気づいた」のです。
それまで頭の中にため込んでいた聖書の中の色々なパーツがパタパタと合わさって、一枚の壮大な絵に出来上がるようでした。
全てが次々と関連付けられ、この世界での、私の人生での、一日一日の神様のプロセスが目に見えるように理解できるようになりました。
主の愛の深さ広さを身に染みて感じるようになりました。
私が生かされているのはそういう壮大なすばらしい世界であることに気づきました。そこに私は置いて頂いている…
その後も苦しみの中に放り投げられるたびに、幾度となくあの十字架のもとに私は帰ります。神様が造られた完璧な世界に置かれている私ではあっても、傷つけば血を流す生身の体を纏い貧弱な魂でしかないのです。
何度も躓き何度も倒れながら生きています、けれども必ず戻る原点がある。
そこに帰ることによって私はまた新たに力を受け造り直されて進む事が出来る、主と共に歩く道を進んで行くことが可能になるのです。

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