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息子の将来を考えると不安になるのはなぜなのかを考えてみた話。

私の一人息子は小学校2年生なのだが、小学校に入ってから『勉強が嫌い』と言い続けている。まあ、小学生男子らしいと言えばそうなのだが、やはり母としては、このままではあかんという気持ちが強くなってしまう。

 息子は幼稚園の頃から超偏食で、今日給食どうだった?と聞くと、だいたい毎回『全然食べてない』と言う。息子は超偏食で、焼いただけのものや切っただけの野菜なら食べられるが、調理をしたものは基本苦手で、煮物や、酢の物など、味付けした料理が出る(それが当たり前なんですが)とどうしても箸がつけられないみたい。母としてはこのままではあかんと言う気持ちが強くなってしまう。

先日は、学校から電話がかかってきて、お友達と砂を掛け合っててだんだんヒートアップして殴り合いの喧嘩になりました。怪我はならなかったけど、一応指導しておきました。という趣旨のことを担任から連絡がきた。息子に聞いても『向こうが先に砂かけてきたから』と言うのみで知らん顔。母としては、このままではあかんと言う気持ちが強くなってしまう。

こうなってはあかんが重なると、私は不安でいろんなことが手につかなくなる。
1人目の長男に対する自分の育児について、過保護で、甘やかし放題で、しつけがなってないと言う世間からの厳しい指摘が飛んできそうなほど自信がない。 初めての母業、0歳から息子を育てて母親のキャリアは7歳かもしれないけど、7歳の育児は初めてなのだ。結局1人目の子育てというのはいつも手探りになってしまうのは当然ではないか。
それでも、一つだけ言えることは、私は、息子を一人の人間として、尊重してきたつもりだ。 私は、尊重の基準として『友達』や『会社の同僚』などに対して失礼にあたる行為を『息子』にもしない。ということだけは徹底してきた。しかしながら、我が子のことを心配しすぎるあまり、自分と一体化して考えてしまうようなところがあるように思う。これは、うちが一人っ子であり、男子だからこそそうなってしまうのかもしれないが。 
あまりに不器用な息子を前に、いろいろ手助けしたくなってしまったり、将来このままではダメな大人になってしまうかもしれない、勉強ができなくて困ってしまうかもしれない、と先回りして心配してしまうのだ。

息子は、幼児期に、発達障害の疑いがあり、3歳から就学までの間に発達検査を数回受け、月に1、2回療育に通っていた。幸い、知的な遅れはなく、特に幼稚園でも本人の困りごとはあまりなくなり対応できてきているということで、普通級に行くことになった。
そんな経緯もあるので、母としては息子が心配で心配で仕方ないのだ。就学後に問題が起きることもよくあることだからだ。ただ、私はやっぱり少し異常な程心配をしているような気もする。この心配の元は一体なんなのだろうか。

母親のためなのか子供のためなのか

私が、息子に対して不安に思っていることは、特に2つで、

1、友達とトラブルになってないか?(迷惑をかけていないか)
2、学校で勉強についていけず、自信をなくしていないか

ということである。それに対して、私は息子の普段の家での様子でしか想像することができないのだが、全然学校であったことを話さないので想像がつかない。更に担任の先生が話す息子像が『いつもの家での息子』とギャップがある。毎回『それ本当にうちの子供ですか?』と言いたくなるくらいだ。1年生のうちはそこまでではなかったのだが、2年になって顕著である。もちろん家でもそんな感じですというような報告もあるにはあるのだが。それにしても一体、私の息子とはどんな存在なのだろう。まるで分からない。それが更に不安を増殖させる。

もしや、家で簡単にできると思っていたことが学校ではできないのではないか?
字を書くのが難しいと言っていたけど、もしかして全然授業についていけてないのでは?もしかして、友達にきつい言い方をして嫌われているのではないか?
不安は芋づる式に出てくるものだ。
当の息子の様子はというと、1年生の時よりもかなり安定している。1年生のときっは、コロナ渦で、休校になっていたため急に6月から学校が始まり慣れない中で毎日泣きながら学校に登校していたし、今はそういうことはほとんどない。では、先ほどの不安は、いったい誰のものなのであろうか?
そう、この2つを不安視しているのは、私だけということになる。しかも全ての不安はもしかしてというところから発しているのがわかる。
これは、私のよくある認知の歪みで、不安になりやすい私の脳の癖だ。
息子は偏食でも別に学校生活において困ってないし、友達関係も、喧嘩にはなるが、その都度仲直りもしているし数人の友達もいる。それと、授業によっぽどついていけないようなら先生から連絡が来るはずだ。と、なると、息子には特に問題がないとも言える。
今、息子はまさに人生の経験値を集めている途中なのだ。小さな問題があることは想定どおりなので、問題なしである。

とは言っても私の息子は手先の不器用さがある。音読のような文字を読むことはまだできるのだが、とにかく書くことが大の苦手。勉強が嫌いな大きな理由はここにあると思っている。
そこで私は、字を早く書いたり、手の不器用さを少しでも緩和するためのトレーニングを調べた。認知力を上げる運動や、集中力を鍛えるワーク。これで息子の困りごとが無くなるのならという思いで育児本も読み漁った。それで、息子のためにダウンロードして100枚近くのコピーしたトレーニング用のドリルを見てふと思ってしまったのだった。

一体、これは誰のためにしているのだろう?息子はこんなこと望んでいるのだろうか?

いつ、息子が私にこんなことをしてくれと頼んだのであろうか。
私が息子にワークをやってもらいたいのではないのか。一体私は、今までに一度でも息子が望んでいる支援をしたことがあっただろうか。いつも自分で先回りをして考えて、悲観的になってはいなかっただろうか。
まずは自分がこの癖をやめて、息子を信じることをするべきではないのか。

小学生にはいって、幼稚園の時倍以上息子と離れる時間が増えた。そして、息子が時間を共にしている人数は、幼稚園の時の4、5倍になるだろう。息子のことを一番理解していると思っても、過ごせる時間はどんどん減って、自分の知らない息子が大きくなっていく。これは仕方のないことで、喜ばしいことでもある。ずっと一心同体だった息子とは、体も心も離れた各個人だということを私はもっともっと自覚する必要があるように思う。

今まで私は、息子とは、なんとなく体と心がつながっているような感じがしていた。阿吽の呼吸というか、そういう物をなんとなく信じ切っていて、息子と面と向かって話をしてなかったかもしれない。今、息子が何を考えているか、それはやはり母親であってもコミュニケーションをしっかりとって意思疎通を図らないと分からないのだ。それは、息子も同じことで、私が何を考えているのかということも、息子に話さなくては伝わらないのだ。
息子が母親と過ごさない時間に息子はたくさんのことを学んで、成長していく。
把握出来ない空白の時間が怖いし、どこまでも息子のことを一番知っている存在でありたい。これが本音ではある。しかし、その空白の時間は、母親でも全て知ることは許されない領域であることも忘れてはいけない。
マザコンになるかならないか、息子と子離れで切るか出来ないかの分かれ道はすでにいろんなところにあるのかもしれない。

もう少し家族の時間を有意義なものにできればいいなあとも思うのだ。

宿題を見てあげたり、一緒に献立を決めて買い物に行って、食材を選んだり、料理を一緒に作ったり、お風呂の中で手遊びをしたり、自分の小学生の頃の話をして息子の学校生活と比べてみたり、ただただ素朴な親子のコミュニケーションを大事に積み重ねることが、母親にできる大事なことなのではないか。

だから、できるだけ自分の知らないところで頑張っている息子を信じてみよう。

無闇に不安になって息子にイライラしてみたりたくさんの教育情報に夢中になり、息子とのせっかくコミュニケーションできる時間をスマホとにらめっこなんてことにならないように。


ただ、コピーした100枚のプリントはもったいないから折を見てやらせようと思っている。





 

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