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迷宮へ、ようこそ

 夫が休職することになった。
 完全主義者で挫折知らずだった夫は、仕事でミスをしてしまったショックで、精神的にダメージを受け、仕事を続けられる状態ではなくなってしまったのだ。毎朝、早起きをしていた夫は、昼を過ぎてもカーテンをひいた部屋でベッドに潜り込んでいる。

 夫と私は二年前に、見合い結婚をした。一分の隙もないようなエリートの夫が、何故ただのんびり生きてきた私を選んだのかわからなかったが、夫の人生計画に記された「結婚」の時期に、たまたま知り合ったのが私だったからというのが、その理由のようだ。

 青ざめて帰ってきた夫に、私は会社でどんなミスをしてしまったのか聞いた。「上司に、落書きを消し忘れた書類を提出してしまった」と言うので、どんな落書きだったのかと聞くと、夫は少し沈黙した後、小さな声で「あ~あ、疲れた」、と呟いた。私は思わずぷっと吹き出して、「そんなの気にするほどのことじゃないじゃない」と言った。夫は激怒した。
「おまえみたいなノンキな人間には、俺の気持ちはわからない」
 そう言い捨てて、ベッドルームに立てこもった。

 夫の代わりに会社に電話をすると「気にすることないのにねぇ」と、私が思ったのと同じような反応が返ってきた。結婚してから夫は私に言い続けてきた。「思慮が足りない」「楽天的過ぎる」「ずぼら」「ぐーたら」。
 まったく、病気になりたいのはこっちの方だ。

 どうやら外出が出来るくらい快復したようなので、一緒に心療内科を訪ねた。私はこういう時こそ、持ち前の大らかさで、やつれきった夫を支えたいと思っていた。

 ところが診療室で夫は、妻と自分は正反対の人間なので絶対にわかり合えないのだと言い切った。更にその帰り道、夫は言った。「子供ができた」と。
 私はわけがわからなかった。夫は私との子供は欲しくないと言っていたし、私は妊娠していない。

 実は結婚直後から愛人がいたこと、私とは違う繊細な人で、彼女とのメールのやり取りで立ち直ってきたこと、その彼女が妊娠していること、そして「離婚して欲しい」と夫は告白した。「おまえは傷つくような神経、持ってないだろう?」

 私は繁華街を一人で歩いていた。周りの風景が歪んで見えた。私は何者だろう、どこに向かっているのだろう。膝の力が抜けて、崩れ落ちる。心のダムが決壊した。

 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!

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