見出し画像

一期一会の乗務員⑤ 〜日本一の遊郭街・吉原⑵〜 2023年1月21日

旅行と歴史が大好きで、タクシー乗務員になりました、みやび と申します。

本日、乗車12日目を終えて帰って来ました。昨日も無事故無違反で神様に感謝🥲⛩✨

新米の私ですが、走るエリアは『吉原』へ。

この街、浅草のちかくにありますが、住所は『台東区千束4丁目』になります。

交通の便がさほど良くないので、タクシーをご利用いただける繁華街のひとつです。

電車だと、都営地下鉄日比谷線『三ノ輪』駅下車 徒歩10分、JR山手線『鶯谷』駅下車徒歩20分くらい。

そう言われても、なんだか道が分かりづらいので初めて訪れる方には難しいんですよね💦

さて今回は、吉原の歴史を語ってみましょう。この街の歴史は江戸時代から続いています。

江戸初期の頃に庄司甚右衛門(しょうじ じんえもん)という人物が居まして。

江戸に点在している遊女屋を集めて、傾城町(=遊郭)を設立することを幕府に願い出ました。

1612(慶長17)年に申し出て、1617(元和3)年にようやく許されると、甚右衛門は、江戸町1丁目で妓楼「西田屋」を営み始めました。

実は『吉原』日本橋から奥浅草へと移転しています。

初めは日本橋人形町の辺りに作られたのですが、後の大火事(1657年明暦の大火)によって全焼し、今の台東区エリアに移されたのです。

しかし、この名残りは今も残されています。東京都中央区日本橋小舟町と人形町を結ぶ『親父橋』という橋がありまして。

当時の吉原近くを流れる東堀留川に、おやじと尊称された甚右衛門が架けた橋ということで、この名前が残されています。

この甚右衛門は『三甚内』とも呼ばれ、盗賊の高坂甚内、古着市の鳶沢甚内とともに大層やり手だったようです。

小田原北条氏の浪人とも、東海道吉原宿の出身とも駿河の宿屋の主人だったともいわれますが、出自・経歴には不明な点が多いのです…

さて、私の吉原エピソードをひとつ。

乗務員には守秘義務がありますので、店名、個人的な送り先などは明かせませんが… 書き記したい話を書いていきたいと思います。

吉原の店は、風営法という法律で定められてらいて、営業時間は24時まで。(風俗店全般に)

そのため、22時くらいからソープ帰りと見られる客や、店で働く女の子達の乗車が増えてきます。

ある日、私はボーイさんに呼び止められました。吉原の店から店への送りでした。

初めは男性スタッフのみが乗っていましたが、女の子を店から店へ送ることに。乗車の精算が終わった後、この女性から声をかけられました。

「タクシー、帰りも送って欲しいから待っててもらえます?」

「ハイ、わかりました。(待ち)時間かかります?」

「すぐ来ますので」

待つこと10分。女性が乗車してきました。

「〇〇駅まで」

この方をお乗せして走っている際、何故か唾液でムセてしまった私。ゲホ、ゴホ…

「スミマセン、唾液でムセてしまいました💦
コロナとか風邪とか、変な病気ではないので」

「大丈夫ですか?飴ありますよ」

「ありがとうございます、ムセただけですのでご安心くださいね」

「…待っててくれてありがとうございました。この街は、女性ドライバー居ないから乗せてもらいたかったんです」

「光栄です、ありがとうございます」

「時々、変なの(タクシー)も居て」

お互い、多くは語りませんでしたが、彼女の話す言葉の意味は分かりました。

その街で働く女性として、変な話題を振られてしまうのではないか。色眼鏡で見られているのではないか…

「私の住んでいるエリアでは見かけることもあるけど、もっと吉原にも女性ドライバーが増えて欲しい」

男性はほとんどの人がお世話になってるのに、蔑んだ目で見て、そういう女として扱う。同じ女性として、とても悲しくなりました。

彼女たちは労われるべきなのに、そうならないのは…

私は、風俗嬢の地位と身分を守るべきだと思う一方で、彼女たちの多くは納税義務を怠っているから仕方ないとも思っています。

そうなれば、日陰に潜んでしまうのは必定で…

さらに遊郭の女性が、迫害を受けてしまうのは日本遊郭の歴史の長さと重さにもあるだろう、と。

妾の地位が比較的に許されていた明治ならば、この街から名を上げてゆく人も居たかもしれません。

でも、令和の今は公序良俗が叫ばれ、法令遵守の名の元に文化が失われることもあります(石田純一みたいですけど)

彼女たちの足跡は、店から名付けられた通り名だけ。人生の黒歴史として封じ込められてしまう、吉原の街の思い出としか残らないのでしょう。

まだ、私の中の答えは出せないけれど、日本は変わるべき、或いは国より民間が力を持ち、より良き未来を…

目的地に到着し、私は支払い金額を伝えました。

「これで、ジュースでも飲んでください。また来てくださいね」

釣り銭入れには、乗車運賃の他に100円玉数枚と、のど飴3つが置かれていました。

身体を張って働く彼女たち。

毎日ではなくとも、私は吉原を走ろうと思います。彼女たちが、安心して働けるために。

頑張る彼女たちが、少しでも嫌な思いをしないように… あの日のジュース代とのど飴の恩を忘れません。

続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?