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いちばん悲しい人。

祖母が亡くなったとき、悲しかった。
いまも悲しい。おばあちゃんに会いたい。
悲しみにとっぷりと浸かった頭で、ふと思う。
それでも、順番だと。
長く生きたひとが亡くなった。それは順番だ。
世の中には、子を亡くした親がいる。
考えただけで、こころがすっと冷える。
恐ろしい。そんなことが自分の身におきたら、生きていけない。でもそれは現実にあるのだ。轟音のような悲しみが、この世にはあるのだ。
そう思うと、おばあちゃんがおばあちゃんと呼ばれるまで生きて、亡くなったことは、悲しいけれど、幸せなことなのかもしれない。

コロナ禍で妊娠し、閉塞感があった。外に出たい、人に会いたい、働きたいと思った。
そんなときに戦争をテーマにした映画をいくつか観た。ヒトラー最期の12日間、硫黄島からの手紙、日本のいちばん長い日。映画のなかの人々に自由はなかった。こんなことがかつて現実にあったなんて。今でも国が違えば、こんな生活をしている人がいるなんて。
それに比べたら、自分の閉塞感なんてほんとうにちっぽけなものだ。安全な場所で、何不自由ない暮らしで、なんて恵まれていて幸せなんだろう。

要するに「世の中にはもっとつらい人がいる」と考えて、自分のつらさを客観的に定量化し(した気になり)、距離をとっているんだろうけれど、この考え方ははたして健全なのだろうか。
いちばん悲しいのは誰なのだろう。いちばんつらいのは誰なのだろう。いちばんの悲しみ以外は「それに比べたら幸せ」なんだろうか。

こんなに悲しいのに?こんなにつらいのに。

嬉しいとき、たのしいとき、人と比較したりしない。喜びの最中に「でもあの人の方がもっと嬉しそう」なんて思わない。
比較するというのは負の感情を自分なりに昇華するための手段なんだろうか。
いつまでもその感情に囚われないための、手段なんだろうか。

この考え方が健全なのかどうか、まだ分からない。

他人の悲しみに対して「でもね、世の中にはもっと悲しい人がいるんだよ」なんて言うことだけはしないでおこうと思う。

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